穹の刻
かりそめの 4

(斎藤×千鶴)

 所帯を持つというのはこんなに穏やかな気持ちにさせるのだろうか、と周囲が関心する程、斎藤が纏っていた雰囲気がガラリと変わったのは明らかだったが、誰もそれがかりそめだとは思いもしない程、斎藤と千鶴は「夫婦」だった。
 しかし、それに気付かないのは本人達のみで、特に千鶴は「ちゃんと斎藤の妻として見えているだろうか」と、常日頃からそれらしい行動を取ってはみるものの、周りから「仲がいい」と言われるのは千鶴が意識してとった行動では無く、普段の振る舞いであるのだが、千鶴は自分の行動が評価されているのだと信じていたし、斎藤に至っては周囲がどのように自分達を見ているのかは気にも留めていなかったのだが。

 家事が終わると散歩をするのが日課になっており、斎藤が早く帰った時は夕餉の時間までふたりで小さな花を眺めたり、暮れる夕日を眺めたりしていた。
「新選組にいた頃はこんな時間はありませんでしたね」
「それどころではなかった故」
 戦争は終わった。ある意味平和な日常が訪れたと言ってもいいのだろうが、それは倒幕派達だけに訪れた物のような気がしていたが、自分にも訪れているのかもしれないと初めて感じていた。江戸に戻れば斗南に来たばかりの時に斎藤が言っていた現実を知る事になるのだろうと想像出来るようになったのは会津藩の人と接しているからだ。元より斎藤の言葉を信じていなかったわけではないが、少し心配性な面を持っているような気がしていたのと、千鶴を気遣っているからではないかとも考えたからだ。
 父を亡くし、兄を亡くし、土方を亡くした千鶴は天涯孤独になってしまった。
 薫が兄だと思い出したが、それ以上は思い出せずにいた。幼い頃に生き別れになった為、思い出という思い出は少ないが、それでも思い出したかった。再会するまで、薫はどのように生きてきたのか。千鶴を敵視しているように見えたが、心の底から千鶴を求めているようにも見えたのは千鶴と違ってずっと家族の、一族の記憶を持っていたから、淋しさが重なり、歪んでしまったのかもしれない。
 再会したのに千鶴は薫の事だけでなく、自分が鬼だという事すら覚えていなかったのだ。きっと千鶴も同じ思いをしているだろうと、ずっと心配していたに違いない。再会した薫は誰の目から見ても、歪んだ愛情を持っているようだったが、はじめからそうだったわけではないのだ。最期に見せた千鶴にすがる姿は妹を思う兄だった。
 もしも、ふたりが綱道に預けられていたら。
 もしも、ふたりが南雲家に預けられていたら。
 もしも、別々に預けられていても、千鶴が薫を忘れていなければ。
 どうしようもない後悔ばかりが浮かんでは消えていき、また浮かんだ。
「千鶴?」
 心配そうに覗き込む斎藤に「何でもありません」と答えたのだが「そうか」と言いつつも千鶴の言葉を待つかのように斎藤はじっと見つめた。
「薫の事を考えてました」
「双子の兄、だったな」
「はい」
 何故千鶴だけが忘れていたのか。離ればなれになったのは物心ついてからだった筈なのに……と、正直な気持ちを吐露すると
「詳しくは知らぬが、人間に滅ぼされたのだろう? 千鶴はそれを見ていた。両親が攻撃されている姿を見ていたのかも知れぬ」
 それだけの体験をしたのだから、あまりにもの衝撃で忘れてしまっていてもおかしくはない。
「おまえは子供だったのだ」
「でも、薫だって……」
「おまえは女子なのだ」
 どんな言葉も慰めにすらならないと解っていても、斎藤は「どうしようもない事だ。千鶴は何も悪くはない」と、話し続けた。
「冷えてきたな。そろそろ戻るか」
「はい」

 帰路へと向かっている時、ふたりに言葉はなかったが、少し前を歩く斎藤の後ろ姿を…いや、少し俯いていたから足下なのだが、見つめながら改めて斎藤の優しさに感謝をしていた。実の所、ここに来るまで頭は土方の事で一杯で、薫を思う気持ちの余裕すらなかったのだ。こうして薫を偲べるようになったのは心に余裕を持てるようになったからである。それもこれも、斎藤のおかげだった。
(いつまでもこんな暗い気持ちでいたら斎藤さんに申し訳ない)
 少しでも前を向いて、以前の自分を取り戻さなければ。新選組にいた頃の自分を。
「……っ!」
 俯いていたから、斎藤が歩みを止めていたのに気付かず、千鶴はその背中にぶつかってしまっていた。
「す、すみません」
「………」
 斎藤は千鶴の声に、いや、千鶴がぶつかった事にすら気付いていないようで、視線の先に自らの眼をやると
「は…原田さん!!」
「よう、千鶴」
 家の前に立っていたのは原田だったのだが、斎藤の顔は少し険しいそれだったのは原田の隣にいる男のせいである。
「不知火、さん……」
 どうして原田の隣にかつて敵だった鬼である彼が親しげに笑顔を見せているのかふたりには理解出来なかった。
「別に取って食いやしねぇよ」
 原田がそれを許す筈が無い。頭で解っていても素直に駆け寄れなかったのは今までの記憶が鮮明に残っているからだろう。
「こいつは大丈夫だよ」
「……そうか」
 不知火に殺気を感じなかったのだろう、斎藤は「長旅だったのだろう。あがれ」と、ふたりを招き入れた。
「お茶を淹れてきます!」
「あぁ、頼む」

「結婚してるって、この場所を尋ねた時に聞いてはいたが、まさか千鶴だったとはな」
「……結婚したわけではない」
「は? だって、一緒に住んでんだろ?」
 まるで昔からの友人のように不知火もふたりの会話に入ってくる。
「一緒には住んでいるが、夫婦ではない」
「でも、斎藤の職場の人はそう言ってたぜ?」
「便宜上そのようにしているだけだ。婚姻を結んでいない男女が一緒に暮らしているのだ、その方が都合が良い故」
「そもそも、なんで千鶴とおまえが一緒に住んでんだよ。確か千鶴は土方の女だったじゃねぇか」
 五稜郭まで千鶴が追いかけていったと、原田も不知火も耳にしていたのだ。そして、風間との事、土方の最期までも。だから千鶴がひとりになり、他の誰かと添い遂げていたとしてもおかしくはないのだが、何故相手が同じ新選組にいた斎藤なのか疑問だったのだ。
「暫くは蝦夷にいたらしいのだが、江戸の家が気になってひとりで江戸に戻ろうとしている所、ここで再会したのだ」
「へぇ、運命的だな」
 ニヤニヤと笑う不知火を無視しながらも話を続けた。
「千鶴がひとりで江戸に?」
「あぁ。千鶴は旧幕府軍がどういう扱いを受けているのかまるで知らぬようだった故」
 原田もまた同じ事をしたに違いないと、それだけを言うのだが
「それで、なんでおまえと千鶴が夫婦って事になってんだ」
 原田が質問する前に不知火が問いかける。
「ま、まぁ。そうだな。斎藤が言いたい事は解ったが……」
 斎藤の事だから、本当に表向きだけ夫婦のようにしているのだと想像はつくが、不知火の言う通り、千鶴は「土方の女」だったのだ。あの斎藤が土方の想い人とかりそめとは言え、夫婦として共に暮らすとは考えられなかった。
 もしも、千鶴が藤堂と恋仲だったのならば考えられなくもない。相手が沖田だったとしてもである。しかし、斎藤が一番尊敬する土方と恋仲だったのだ。決して裏切っているわけではないが、容易くふたりきりで暮らすというのは原田には考えられなかったし、不知火もまた考えられなかったようだった。