穹の刻
かりそめの 3

(斎藤×千鶴)

 斎藤を「名で呼ぶ」という事になったが、いざ斎藤を呼ぶ時どうしても「斎藤さん」と呼んでしまいその度に「今はふたりきり故構わぬが、人前でもそれだと夫婦には見えぬ」と、何度も呼び間違えてしまう千鶴に間違える度に「名で呼べ」と言うようになっていた。
 実際、外に出る機会は少なくない。新しく千鶴がここに住むようになり、近所の人達との交流は斎藤がひとりでいた頃よりも多くなっていたようだった。だからなのだろう、いつまでも「斎藤さん」と呼び続けてしまう千鶴に口うるさくかりそめであるが、夫である斎藤を名で呼ぶように何度も注意するようになるが、元々頑固な性格をしているからなのか、千鶴は斎藤を氏で呼ぶ癖が抜けずにいた。

「千鶴が俺を名で呼ばない場合は返事をしない事にした」
「えっ?」
 何故そこまでするのか千鶴には理解出来ずにいたが、きっと何か理由があるのかもしれないと「どうしてですか?」とは尋ねなかった。
「はじめさん、はじめさん……」
 そう呼ばなければいけないと思いつつも、心のどこかで「いつかはここを出て行く」という気持ちがあったのかもしれないと、世話になっておきながら、出て行く事が頭にあったのだと改めて感じていた。
 勿論、ずっと世話になってはいけない。かりそめで夫婦をしていてはいけないと、斎藤に申し訳が立たない気持ちを忘れてはいない。
 だが、それだけではなかったのだ。
「はじめさん……」
 土方の名ですら呼ぶ機会がなかったのに、と思わずにはいられなかったのだ。男を名で呼ぶのは斎藤が初めてではない。藤堂の事は出逢ってすぐに「平助君」と呼ぶようになっていたが、それとこれとでは別である。
 本当は土方と例え貧しくても、ふたりでならばどんな場所でも幸せになれた筈だったし、心からそう望んでいたが、土方が選んだのは千鶴との穏やかな日々ではなく、志だった。
 千鶴と出逢う前から、もしかすると物心がついた頃からの夢だったのかもしれない。生まれが武士ではなかったからこその夢だったに違いない。近藤と共に見ていた先に千鶴はいない。近藤が皆を逃がす為に捕まった時、斬首された時にもう土方の心は近藤の場所に向かっていたのかもしれない。そう思うと、自分は一体何だったのだろう。土方の止まり木にさえなれなかったのではないだろうかと、冷静になればなる程、明治のこの時代、土方の生きる道は閉ざされていた、いや、生きようと思っていなかったのではないかと思えてならなかったのだ。
「私って本当に駄目だな。またこんな…答えのない事ばかり考えてしまう」
 斎藤が千鶴がひとりで江戸に向かうのを止めた理由はただ江戸が危ない場所だからではない気がした。ひとりだと答えの出ない、出口のない迷路に捕まり土方の元へと行きたいと、自ら命を絶ってしまう事まで考えてしまう千鶴を止める為だったのではないだろうか。
「斎藤さんは…先を見る事の出来る人だから」
 冷静でなければ、どんな時でも平常心を忘れない斎藤だからこそ、新選組で、土方の元で働けたのだろう。
 ただ、冷静な人ってわけではない。本当の優しさを持っているからこそ、土方は斎藤を信じたのだ。斎藤を信じていたのは土方だけでなく、試衛館の面子は全員、御陵衛士に行った時も斎藤だけでなく、藤堂の事もまた信じていた。志す所が別でも「仲間」なのだと。それがもし、互いに斬り合う事になったとしても……
 そんな事を言えば「甘い」と言われるだろうが、彼らには千鶴には解らない絆があり、羨ましく感じた事も一度だけでは無い。自分が女ではなく、本当に男だったら新選組の隊士として同じ志を持てたのではないか…と世迷い事を考えた事もあるが、自分が鬼だと知った時、それは不可能なのだと悟った。自覚はないが、千鶴は確かに人間ではなく、鬼だった。早く癒える傷がそれを物語っていた。
 はじめから鬼だと教えられていたら、人間に対して憎しみを感じていたのだろうか。薫のように。わずかに思い出した幼い頃の自分達。でも、それは鬼としての自分ではなく、薫と兄妹だという事だけだ。兄妹なのに、どうしてこんなに道を違えてしまったのか。どうして離ればなれにならなければならなかったのか。

 今日は珍しく、いや初めて考えが土方以外の事にまで及んだ。土方への想いが消えてなくなったわけではない。ただ、心の傷もまた少しずつ癒えているのかもしれない。それは紛れもなく斎藤のおかげだった。
 漸く「日常」を取り戻せたのだ。ここ、斗南で。
 いつか、江戸に帰らなければならない時が来る。それが自分の意志でか、それともそういう状況下になってからなのか今はまだ解らないが、いつになるか解らない事を今から考えても仕方が無い。
 だから、今は夫婦として、斎藤の傍にいようと思った。
 まずは呼び名である。
 人前だけ「はじめさん」と呼べば良いと思っていたけれど、きっと千鶴を思ってふたりきりの時も斎藤を「はじめさん」と呼べと言ったに違いない。
 ならば練習をしなければ
「はじめさん…はじめさん……」
 意識していればそう呼ぶのに抵抗はない。呼んだ時に心なしか頬が染まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「斎藤さんも恥ずかしいのかも……って、また斎藤さんって言っちゃった」
 長年呼んで来た呼び方を変えるのは難しい。
 無理矢理、というのも変だが、癖をつけてしまえばいいのだ。

「おかえりなさい、はじめさん」
「あっ、あ、あぁ……ただいま」
「お疲れですよね。先にお風呂になさいますか? はじめさん」
「あ、あぁ…そうだな。いただこう」
「では、寝間着と手ぬぐいを用意しますね、はじめさん」
「あ、あぁ……」
 にっこりと笑みを浮かべる千鶴にほんの少し疑問を感じながらも、暗い影は見えなかったので、風呂場へと向かった。

「食事の支度、出来てますよ。はじめさん」
「あぁ、楽しみだな」
 並べられたそれらは決して豪華ではなかったが、どれも美味そうに見えた。千鶴の料理の腕はここ斗南でも発揮され、斎藤の楽しみのひとつにもなっていた。試衛館にいた頃も斎藤をはじめとする沢山の食客もおり、試衛館に通う者もいたが、思うように集金出来ずにひもじい思いをしていた。近藤の義母が食事を用意してくれていた。永倉や藤堂達は質素なそれらに文句を言いながらも、笑顔で食べていた。食客と一緒に食事をするのはとんでもないと義母にも言われていたのに、近藤は同じものを永倉達と一緒に食していた。いや、自分の分まで土方をはじめとする食客達に分け与える事も珍しくなかった。
 千鶴の料理と近藤の義母の料理は似てはいないが、懐かしさを感じる点では同じだった。近藤は千鶴の料理をとても楽しみにしていたのをよく口にしていたし、土方は口にこそしなかったが、千鶴が当番の時は口元が少し緩んでいたような気がしていた。
(今、千鶴の料理を食べられるのは俺だけ、か)
 永倉が生き延びたのは知っている。原田は戦死したとも、日本を離れたという話も聞いて、真実は知らなかった。永倉も千鶴の料理を楽しみにしていたから、もし今の状況を知れば「ずるい」と言っただろうかと、楽しそうだった三馬鹿と呼ばれていた三人組を思い出していた。
「どうかされたんですか? はじめさん」
「あ、あぁ、いや…大したことではないのだが……」
 千鶴の料理を食べると、楽しく過ごしていた頃を思い出すのだ、と嬉しそうな笑みを浮かべて、試衛館時代の話を始めた。
「試衛館時代の話は永倉さんからも聞いた事があります」
「そうか。裕福ではなかったが、楽しかった故」
「皆さんそう仰ってました。平助君は酔うとその話をよくしていた気がします」
 浪士組の頃から藤堂は迷う所があった。近藤や土方を慕っていたのは事実だし、永倉達を心から信じられる仲間だと思っていたのも事実だが、試衛館の面子の中で一番最初に道を分かつ決心をしたのが藤堂だ。京に出て、浪士組から新選組と名を変えてから、段々と陰りを見せるようになっていった。本人は誤魔化してはいたが、陰りは後に御陵衛士という形になり、最終的には羅刹の道へと進んでしまう事となった。だからというわけではないだろうが、藤堂にとって試衛館は純粋に楽しかった時間なのかもしれない。
 千鶴から来た頃の新選組はもう火の車という状態ではなかったから、食べ物に不自由する事はなくなっていた。だから、今目の前にある夕餉は質素だからこそ、あの頃を思い出させた。工夫された料理達に千鶴の優しさを感じ、懐かしさも同時に感じるのだ。
 豪華な飯もいいが、斎藤は豪華な飯と千鶴の飯を並べられた時間違いなく千鶴の飯を選ぶだろう。
 と、昔を懐かしみながらの夕餉の時間を過ごしていたのだが……
「さっきからずっと気になっていたのだが」
「味付け変でしたか? はじめさん」
「いや、味付けではない。その……」
「掃除もしたんですけど…ちゃんと出来てませんでしたか? はじめさん」
「いや、掃除も完璧だ。元々物がない故、掃除するのも楽だろう」
「無駄な物がなくて、はじめさんらしいと思います」
「そ、そうか……」
「?」
 いつもはハッキリとした物言いの斎藤が何故動揺したような物言いなのか解らず、首をかしげると
「その…先程からずっと俺の名を……」
 まるで連呼するように呼ぶのは何故なのか、と言うと
「やっぱり不自然…ですよね」
「いや、不自然というのではなく、どうかしたのかと……」
「どうしてもつい斎藤さんって言ってしまうので、慣れるには言うしかないと思ったんです」
「だから、何を言った後にも俺の名を呼んだわけか」
「はい、すみません」
「謝る必要はない。何か含む所があるのかと勝手に俺が勘違いしただけだ」
「含む所なんて……!!」
 そのような物言いをする性格だとは思ってはいないが、いつもの千鶴と違っていた為どうしたのかと少し心配をしていたのだ。
「そこまで練習しなければ、俺の名は呼べぬか」
「い、いえ! そういう事じゃないんです。ただ…私の中で斎藤さんは斎藤さんなんです」
「意味が解らぬが」
「気楽に名前で呼べない…って言うのとはまた違うんですけど……」
 と、年上ですし…付け加えたような言い訳をする千鶴に
「俺と平助は同じ歳だが」
 何故、平助は気軽に名で呼べて、俺は気軽に呼べないのだ、と言わんばかりの雰囲気を醸し出しているのを斎藤自身は気付いていないようで、思わずそんなに名前で呼んで欲しかったのだろうかと思わずにはいられない程だったが、流石にそれは言えずにいた。
 何故名で呼びにくいのだ。
 何故名で呼んでくれぬのだ。
 決して言葉にはしていないが、表情が物語っていた。
「ふふっ」
「何故笑うのだ」
「すみません」
 とても可愛らしいかったので、とは言わずに
「斎藤さんは…土方さんみたいなんです」
「意味が……」
「平助君は…永倉さんみたいなんです」
 だから、というのも理由にはならないと思いますけど、そんな印象だからです、と斎藤を真っ直ぐ見て
「でも、呼べないというのではないですよ、はじめさん」
 そう言うと「そうか」と、斎藤は穏やかな笑みを浮かべた。