穹の刻
かりそめの 2

(斎藤×千鶴)

 数日間、顔を見られないように家に籠もっていた千鶴だったが、斎藤の妻として暫くここ、斗南に留まると決めたので、堂々と外に出られると、蝦夷を出た時はただの通り道になる筈だった場所を漸くちゃんと見る事が出来た。
「まさか、斎藤さんがここにいるなんて……」
 そして、その斎藤と夫婦として暮らす事になるなど考えもしなかった事である。そもそも、死んだと聞いていた人と会えるとは想像すらしなかった。驚く事の連続でしっかりと喜んでいなかったのではないかと、初めて感じたのだ。
 かの地を出た時、千鶴はただ江戸の家が気になる、そのままにしてはいけない、前進しなきゃいけないという使命感から夢中であの優しい老夫婦の元から出る決心をした。あまりにも居心地が良過ぎて、ずっといたら千鶴は本当の意味での前進が出来ないかもしれないと、それでは土方を…新選組の皆を哀しませるだけだと気付いたから。
 だからといって、すぐに気持ちを切り替えられる程、千鶴の心の傷は浅くなく、それを承知の上で斎藤は江戸が危ないというのもあり、千鶴をこの場所に留める事にしたのである。
「相変わらず、斎藤さんは優しいな」
 斎藤の全てを知っているわけではないが、いつだって斎藤は自分の事を後回しにして、誰かの為に動いていた。新選組に属している時は土方の元で汚い仕事もしていた。監察方が間者の仕事をするのは当然…と堂々と口には出来ないが、志の為、国の為にと敵の動きを知る為に誰かがやらなければならない仕事だと千鶴も理解していた。しかし、斎藤は三番組の組長で、新選組の幹部だというのに、そのような仕事をしていたのは何故だろうと考えた事もあった。他の組長はそのような仕事をしている所を千鶴は見た事も聞いた事もなかった。
 何故、斎藤だけが人が嫌がる仕事を幹部なのにやっていたのだろう。
 考えなくても答えはひとつだ。
 全ては新選組の為、そして土方の為だ。近藤に対しても忠誠心はあったが、沖田程ではないし、土方以上ではなかった。勿論信用していたし、尊敬もしていただろう。それでも、何故局長である近藤ではなく、土方だったのだろうか。
「どことなく似てるから…かな」
 武士であろうとした姿勢は斎藤以外の幹部達には…強く感じられなかったような気がしていた。だから、土方が本当に信じていた幹部達は新選組から離れて行った。

 考えないようにしようと思っているのに、いつの間にか新選組の事を土方の事を考えてしまうのは斎藤の傍にいるからだろうか。
 いや、どこにいても、誰といても、関係ない。千鶴の心の中から土方がいなくなる事はない。
「はぁ……」
 しゃがみ込み、乾いた土に手をやると
「何をしている」
 振り向かなくても声の主は誰だか解る。慌てて立ち上がると
「ここについてから、外に出るのを控えていたので……」
「散歩、していたのか」
 千鶴が最後まで言う前に返答をした。
「はい」
「特に何もないだろう」
「そうでもないですよ?」
「そうか」
「はい。空気はとても澄んでいて綺麗です」
 お世辞ではなく心からの言葉だというのは千鶴の眼を見ていれば解る事である。嬉しそうな笑みを見て安心したが、斎藤が声をかける前の千鶴の表情は今と反対のもので、何を憂いでいたのかは聞かなくても想像はついた。原因ははっきりしているが、斎藤にそれを解決してやる術はなかった。
「もう少し歩くか。案内してやれる場所は特にないのだが……」
「はい! お願いします」
 ひとりでいる時に千鶴の心を軽くしてやれなくても、ふたりでいる時位は笑顔にしてやりたい。そう思うのは千鶴が斎藤にとって他人ではないからだ。千鶴は隊士ではなかったから、仲間というのは違ってくるが、試衛館時代の彼らと同じ位置に気が付いたらいたのは本当で、いつからそう思うようになったのは定かではないが、千鶴は大切な人だった。だから、江戸にひとりで帰るというのを無理矢理にでも止めて、夫婦という偽りの場所を作ってでもここに留まらせている。
 土方の為。というのが心にないと言えば嘘になるが、例え千鶴が土方の想い人でなくとも、斎藤はきっとこうしただろう。斎藤でなくとも、ここにいたのが、再会したのが斎藤ではなく、永倉や原田でも同じ事をしたに違いない。もしも沖田や藤堂が生きていたとしてもそうしただろう。
 それ程、千鶴は斎藤達の、試衛館の仲間の中に溶け込んでいたのだ。まるでその頃から一緒にいたかのように。
「今日は天気がいいから、星空も綺麗だと思う故、一緒に見るか」
 特に会話という会話はないものの、斎藤は「何もない場所だ」と言いつつも、景色の良い場所を案内し、ぽつぽつと話をした。
「星空…斎藤さんは星空がお好きなんですね」
「何故そう思う」
「前に、夜空を見上げている所に――」
「あぁ。そうだったな」
 新選組にいた頃に、ふたりで夜空を見上げた事があったのを思い出した。
「よく覚えていたな」
「微衷を尽くす、と仰っていました」
「あぁ」
「あの星空も綺麗でしたけど、どこか哀しい光だったような気がします」
 きっと、私の心の光だったのだと思います、と少し俯いてまるで独り言のように呟いた。
「ならば、今宵は優しい光が見れるかもしれぬな」
 もう争い事はないとは言わないが、安心して暮らせるようになった。あの頃の不安と今の不安では違ってくるが、命の危険はなくなったといっても過言では無い筈。だからというわけではないが、心の負担は軽くなった分、斗南に来て見上げた星空の美しさを千鶴ならば「綺麗」だと感じるだろう。
「そういえば、ここで夜空を見上げる事はありませんでした」
「夜は冷える故、戸を開けたままにはしないからな」
 だが、ほんの少し夜空を見上げる程度ならば、風邪を引いたりもしないだろう。
「夜は一層冷えるので、熱いお茶を用意しますね」
「あぁ。茶菓子があれば良かったのだが――」
「いいえ! お茶で充分ですよ」
 薄く笑みを浮かべると、千鶴も同じように微笑んだ。
 口にこそしなかったが、斎藤も千鶴も、遠いあの日を思い出していた。あの頃ならば、近藤や原田が茶菓子を千鶴の為に用意しただろう。賑やかに過ごした時に思いを馳せた。

「夕餉の支度をしますね」
 いそいそと勝手場に向かう千鶴の背を見送り、斎藤は木刀を持って、庭に出て素振りをしていると
「あの……」
 声を掛けたのは隣人の奥方だった。
「何用か」
「千鶴さんは江戸の方なので、料理といいますか、保存料理等、ここでの暮らしがまだ解らないと思って、持って来たんです。よろしければ……」
「いや、返せる食料があるわけではない故」
「いえ! 交換ではなくて――」
「しかし、貰うわけにはいかぬ」
 どの家も食糧不足で、余裕があるわけではないから、貰えないと断るのだが、お祝いというにはささやかすぎるけれど、と手渡そうとしていると
「斎…あ、いえ…は…はじめさん、あの……」
 てぬぐいを渡すべく庭に出たのはいいが、ひとりではないと慌てて呼び名を変えたが、今は藤田五郎と名乗っていると気付いたのは呼んだ後で、後の言葉が続かなくなってしまった。
「ちっ、千鶴」
 急に名を呼ばれて斎藤も動揺したのか、互いに頬を染めて視線を逸らす姿を見て
「仲睦まじいですね。夕方にふたりで散歩している姿を見て、いつも藤田さんの難しい顔しか見ていなかったので、驚いたんです」
 斎藤の立場や過去を全て知らないが、どういう状況下にいたのかは想像にたやすかったので、漸く心落ち着けるようになったのではないかと、思い、斎藤の中で漸く戦争が終わったのだろうと感じたのだそうだ。嫁である千鶴は優しい雰囲気で、隣同士仲良く出来ると心から嬉しかったから、これはその気持ちなのだと、料理を千鶴に渡し「解らない事があれば、何でも聞いて下さいね」と、去って行った。
「すみません。五郎さんって呼ぶべきでしたよね」
 呼び方まで考えていなかったので、咄嗟に馴染みのある名前を呼んでしまったのだと謝る千鶴に
「いや。昔なじみだと紹介した故、何ら不自然では無い。寧ろ、五郎と呼ぶ方がおかしいだろう」
「そうでしょうか」
「例え話になるか解らぬが、土方さんも近藤さんの事をふたりきりの時や、気の許せる人物達の前でかっちゃんと呼ぶ事もあったのだ」
「かっちゃん、ですか?」
「あぁ。近藤さんの昔の名だ。近藤さんと土方さんは幼い頃からの知り合いだからな」
 嶋崎勝太という名前だった話をした。
「斎藤さんもその頃をご存じなんですか?」
「いや、俺は近藤家の養子になってから知った故、その頃は知らないが、総司は子供の頃から近藤さんの弟分として一緒に暮らしていたから、総司の前で昔の名を呼ぶ事が多かったように思う」
 近藤と土方の意外な一面を知り、蝦夷では「仏の副長」と呼ばれていたものの「鬼の副長」の印象が強かったので、蝦夷での土方の厳しい部分がなくなってしまった事に驚いていたが、本来の姿は蝦夷での姿だったのではないかと思えてならなかった。それだけ、近藤を信頼し、近藤を支え、志を共にしていたという現れなのだろう。
「そういえば、近藤さんも土方さんの事をトシ、と呼ばれていましたね」
「あぁ、近藤さんの方が人前で土方さんの事を親しい呼び方で呼んでいたな」
 いつもの笑顔で嬉しそうに話をする時は「トシ」と、真っ先に土方を呼んでいたのを思い出していた。
「だから…というのもおかしかもしれぬが、俺の事は…その…先程の呼び方で構わぬ」
 千鶴に「はじめさん」と呼ばれたのを思い出したのか、再び頬を染めて視線を逸らせながらもそう言ってきた斎藤に
「はい、そう呼ばせていただきます」
 と、同じように頬を染めて返事をした。