蒼穹の刻
かりそめの 1
(斎藤×千鶴)
「俺の妻となり、夫婦としてここで暮らして欲しい」
土方にさえ言われたことがなく、他の男にもこのような言葉を言われたのは生まれて…初めてではなかったか…と、同じ鬼だと言って千鶴を追っていた風間を思い出した。だが、風間の言葉と斎藤の言葉では意味が違っている。本当の夫婦というわけではないというのは勿論だが、風間の言うそれは単なる征服欲のような気がしていた。女鬼が少ないらしいと言っていたが、それでも女を道具のようにしか見ていない。鬼でなくとも、人間でもそのように扱う男は沢山いたから、珍しい話ではないが、斎藤だけでなく、新選組の、千鶴の近くにいた彼らは決して女を道具としては扱わなかった。寧ろ大切にしてくれていた。まるで家族のように。いや、家族以上に。だから、例え「かりそめ」だとしても、斎藤は本当の夫婦のように大切にしてくれるに違いない。とても有難い話だったが、斎藤に甘えて良いのだろうかと、考えてしまう。しかし、江戸が危険なのは斎藤の話で解ったつもりでいた。だから、もう無理に行こうとは思わなくなっていたが、江戸が危ない場所ではなくなり、千鶴が江戸に帰るという時に、かりそめの夫婦でも離縁という形を取るようになるのだ。斎藤にとって、これは汚点でしかないのではないか。縁談を勧められても「妻がいる」と、断っておいて、いずれ離縁するのは斎藤に悪い要素でしかない。
それでも、今は甘えるしかない。
きっと、斎藤もそれを一番望んでいるように感じていたから。人一倍仲間意識の強い男だったから、千鶴もまた斎藤の仲間のひとりなのだと、改めて感じていた。新選組にいた頃から感じていた事だったが、それを忘れていたような気がするのは土方を失った哀しみの中から出ようとしなかったからだ。
「前に、進まなきゃ」
少しずつでいい。前を向いて、感謝の気持ちを斎藤にゆっくり返して行く。それが今の千鶴の目標なのだと、いつまでも哀しみの海に浸ってはいけない。その内、溺れてしまうかもしれないからだ。ただ、周りを哀しませるだけ。
夫婦とはいえ、かりそめ故、寝室は別である。暮らしは屯所にいた頃と何ら変わらない。ただ、他の隊士達がいないだけ。だからとても静かな時間が流れていたが、それは京に出る前綱道とふたりで暮らしていた時間と同じだったから思いの外、千鶴の気持ちは穏やかだった。自分の為にここまでしてくれる斎藤に相変わらず自分の事を疎かにする人だと、ならば千鶴が斎藤を思いやり、労れば少しは「自分を労る」という事に気付いてくれるかも知れない。
きっと「俺を気遣う余裕があるのなら、自分を大切にしろ」と、斎藤ならば言うだろう。人一倍他人を気遣う斎藤に言われても説得力がないと思いつつも、申し訳ない気持ちばかりを持っていても何もならない。斎藤の為にも、そして自分の為にも。だったら、本当の妻ではなくとも、居心地の良い家を作る事は出来る。今でも会津藩の皆の為、逝ってしまった仲間の為にと厳しいこの場所で仕事に精を出しているのは想像に難しくない。
「頑張ろう。斎藤さんが寛げる場所を作らなきゃ」
蝦夷を出た時、いや出ようと思った時に漸く前進出来たと思っていたが、もしかすると土方を失った場所にいたくなくて、ただ逃げただけなのかもしれない。そして、蝦夷を離れられなかったのは土方の死を受け入れたくなかったから、蝦夷を出ようと思ったのはそこにいた筈の土方がもういないという現実を受け入れたくなかったからではないかと、今更ながらに感じていた。
だから、今漸く現実を受け入れ、前を向けるようになった気がした。
蝦夷で世話になった老夫婦にはただ甘えるだけで、こうして今も斎藤に甘える形になってはいるが、ただ甘えるだけでなく、自分が斎藤に出来る事が見つかると「好意を受けるだけ」という不甲斐なかった自分を見つめられるようになったのかもしれない。
(全部、斎藤さんのおかげ……でも、御礼を言ってもきっと――)
きっと「俺は何もしておらぬ」と言うだろう。
最後に話をした時と、斎藤は何ひとつ変わっていなかった。それがとても嬉しかったのだ。
「おはようございます」
「おはよう…早いな」
もしや眠れなかったのではと、千鶴の眼をみるが、すっきりしたような顔で、安心したように斎藤も笑みを浮かべて「顔を洗ってくる」と、井戸へと足を向けた。
「何故、俺の分しか朝餉が用意されていないのだ」
「え?」
「一膳しか用意されていない」
「私は…特におなかが減っているというわけではありませんし、斎藤さんはこれからお仕事ですから、しっかり食べていただかないと」
「気を遣ってくれているのは解るが、おまえが我慢する必要はない」
「我慢なんてしてませんよ。あまりおなかが空いているというのでもありませんし……」
「あまり、という事は少しは減っているのだろう?」
「いえ! そんな事は――」
言った瞬間千鶴の腹の虫がぐるぐると鳴り響き、千鶴は何も言えなくなってしまった。
「食材があまりないのを気にしているのだろうが、だからといって、おまえが我慢する事はない。半分ずつにすれば良いのだ」
勝手場に向かい、皿を用意すると少しずつ取り分けて千鶴に渡す。
「かりそめとはいえ、夫婦なのだ。我慢はするな」
「はい…すみません」
「謝る必要もない」
「はい」
では、いただこうか、と元々質素だった朝餉が更に質素になったというのに、嬉しそうに斎藤はそれらを口にした。
「やっぱり、斎藤さんは斎藤さんだなぁ……」
流石に全てを千鶴に渡すという事はしなかったが、それでも自分を蔑ろにする所は相変わらずだ。蔑ろにするというよりも、他人を思いやる気持ちが強い。屯所時代、彼の優しさにどれだけ救われた事だろう。多忙な土方の代わりというわけではないが、千鶴の面倒を率先して見てくれていた。斎藤もまた多忙だったに違いないのに、細やかな気遣いをしてくれていたのだ。
「御陵衛士から平助君を奪還する時も、斎藤さんが助けてくれたし」
いつも、千鶴の気持ちの少し前にいて、少しでも千鶴の気持ちが安らぐように努めてくれていた。土方の命令だからと斎藤はよく言っていたが、それだけではない。元々の優しさがあるからこそ出来た事だと、改めて感じていた。
どうして、こんなに人を気遣い、大切にする斎藤が夫だというのに、離縁しようと思ったのか、前妻の事は何ひとつ知らないけれど、不思議に感じていたが、一緒にいた時間は少ないと聞いていたし、斎藤の優しさは少し伝わりにくい所にあるのは何となく知っていたから、そっけないように感じたのかもしれない。だが、ただそれだけで女から離縁をするというのは考えられない。
「って、そんな事私に心配されても嬉しくないよね」
それに、どうしようもない事だ。済んだ事なのだから。ただ、考えてしまうのはもしも帰ってきたら、千鶴はどうすれば良いのだろうか。
「ううん、私が事情を話して出て行けばいいんだけど」
仲間意識の強い斎藤が簡単にそれを許してくれるだろうか。結婚は新選組とは違うのだから、出て行ったから法度があるわけではない。それでも、出て行った相手を斎藤が許したりしないような、そんな気がしていた。
「でも、戻りたいって気持ちがあって、戻ったのだったら、私は絶対にお邪魔だもんね」
いつかここを離れる事を考えて、次への自分の道を今から少しずつ考えていかなければならない。いつまでも斎藤の世話になっていてはいけないと、改めて感じた。
しかし、まずはかりそめとはいえ、千鶴は斎藤の妻なのだ。その内近所にも知れ渡る事になるだろう。斎藤の事だから、職場でも妻を娶ったと話をするに違いない。特に、縁談の話が出たら必ず話をするだろう。いつまでこの生活が続くのか今は想像すら出来ないが、例えば斎藤がいい縁談だと思えばすぐに出て行けるように、生活力…というのも大袈裟かもしれないけれど、つけていこうと思った。
「斎藤さんは絶対に幸せにならなきゃいけない人だもん」
自分がそれを邪魔する立場になっては絶対にいけない。だから、こんな小さな集落だから、噂等すぐに広まるだろうけれど、いつでも出て行ける準備はしておかなければいけない。きっとここを出て行く時はとても淋しい気持ちになるのは目に見えているから、今から覚悟は必要なのだ。その時、斎藤が悪者にならないように、ここで新たに生きていけるように、そして千鶴もまた新たに生きていけるようにしなければ、いつまでも斎藤に心配をかけてしまうから。
「しっかりしなくちゃ」
土方への想いは色褪せない。今はまだ封印する事も、忘れる事も出来ないのならば、時折涙してしまうかもしれないけれど、そんな自分も受け入れて、認めていこうと思うようになった。
「こんな風に思えるようになったのも、斎藤さんのおかげだな」
洗濯物を干しながら、懐かしい黒い着物を見つめた。
「そういえば、斎藤さんの袴姿なんて初めてみたな。今よりも新選組にいた頃の方が着流しよりも袴の方が良かったような気がするんだけど、どうしてだろう」
帰ったら、斎藤に聞いてみよう。それに、聞かなければいけない事は沢山ある。ここで住むにはまだまだ知らない事だらけだから、家事が一通り済んだら少し歩いて見て回ろうと思った。
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