穹の刻
時を綴る 4

(斎藤×千鶴)

 あの総司が…千鶴を想っていた、か。
 夕餉の時に闇に染まる前の新選組の話をしていたからか、細かな出来事までが斎藤の頭をよぎっていた。近藤以外を認めない、心の中に入れようとしなかったあの沖田が、千鶴を心の中に入れていた。あの当時は気付きもしなかった…いや、どこかで気付いていたのかもしれなかったが「総司のきまぐれだろう」という思いもあったし、沖田にとって、千鶴は八木家の子供達と同じような存在なのでは…という思いもあったから、恋心だとは考えもしなかったのだ。今となってはそちらの方が考えられない話だと感じる程、沖田は千鶴を密かに想っていたに違いないと確信出来た。
 病気の事はたまたま千鶴が居合わせたから知る事となったとしか思っていなかったが、あの勘の鋭い沖田が気配を消してもいない千鶴の存在に気付かない筈がない。気付いた上で松本良順の話を聞いたのだ。
 もしも病気になっていなかったら、沖田は千鶴に想いを打ち明けたのだろうか。病気だと解っていたから、人知れず想いを持ち続け、最期に命を懸けて千鶴を守ったに違いない。
 普段は何を考えているのかすら想像もつかない、子供がそのまま大人になったような男だった。そう見えて、実は誰よりも冷静で大人だったのかもしれない。
 最期の最期で、沖田は漸く守りたい人を守れたのだ。近藤の事は守れず、見届ける事も出来なかった。だからこそ、命の終わりを知り、最期の火を愛しい人を…千鶴を守る為に燃やしたのだ。
(最期まで、俺は…総司に適わなかったという事か……)
 どんな時も斎藤は沖田と比べられる対象にあった。意識しなかったとまでは言わないが、天才的な剣術の腕前を持つ沖田に対抗していた時期はあり、斎藤にとって、沖田は今でも好敵手である。

「斎藤さん、おはようございます」
「おはよう、千鶴」
「夕べは遅くまで起きてらしたんですか?」
 恐らく隈が出来てしまっているのだろうと、斎藤は「少し仕事の事を考えていただけだ」とだけ答えたが、千鶴の目の下にも斎藤と同じように隈が出来ていた。
「あんたは…眠れなかったのか?」
「え…?」
 千鶴の目の下に指をあてて「隈が出来ている」と呟いた。
「心配事でもあるのか?」
 解っていて、斎藤は聞いていた。
「何も…大丈夫です」
 頼りない笑顔を見せる千鶴に「何かあったら言え」と、昔のように言うが、意味は昔と今とでは違っているように斎藤自身は感じていた。

 これからどうするべきか。千鶴だけでなく、斎藤も考えていた。何も考えずに千鶴を家に入れたのではない。昔馴染みだから。仲間が、そして自分が信じた人だから。ただそれだけではない。
 単純に放っておけなかった。漸く戦争が終わったというのに、まだ争いごとは止まず、新しい時代に皆戸惑っているように見えていた。
 武士の時代は終わった。なのに、斎藤はまだ武士の時代にすがりついている。すがりついているのではない。ただ、武士という生き方に信念を持っていたのだ。自分もあの戦争で命を落とした方が良かったのかと思った事もある。しかし、その度に千鶴とかわした約束が頭によぎり、生き抜いて、この戦争の先にある国を見ようと思った。死ぬ場所を探していた斎藤が生きる場所を見つけたのは紛れもなく千鶴との約束のおかげだった。武士の時代が終わっても、志を捨てたわけではないし、信じたものが消えたわけではない。近藤や土方、沖田…斎藤が信じた仲間の数人はこの世にもういないが、志を受け継ぐ事は出来る。彼らが生きた証を話すつもりはないが、証として生きていけば良い。会ってはいないが、永倉もそう生きていくに違いない。斎藤とは違った道ではあるが、新選組が在った事実を彼もまた受け継いでいくだろう。袂を分かった時「何故」と、何故共にいられないのか武士の生きる道とは…と、考えもしたが、道が分かれても心は同じだと教えてくれたのは千鶴の存在なのではないだろうかとさえ思えてくるのは時が経ったからなのか。
 土方を亡くしたのは斎藤も千鶴も同じだが、男と女では違うし、情を交わした千鶴と斎藤とでは思いは別の物で、辛い気持ちも全く違うのだろう。しかし…大きく空いた心の穴を千鶴が埋めてくれるのではないかとさえ思えてくるのは何故だろう。もし、再会したのが千鶴でなく、永倉だったのならば、原田だったのならば、どうなっていたか。彼らならば自ら危ない行動を起こしたりはしないので、こうして斗南に留めておかなければ命の危険が…と心配する事等ないし、彼らは彼らで自分の道を自分で切り開く力を持っているし、おそらくその道は違っているだろう。
(眠れなかったせいで、思考がおかしくなっているのか……)
 仕事をしながらも、どうすれば良いのか。新選組と共に居た為今までも、これからも危ない目に遭うやもしれない千鶴をどうすれば安心出来る場所に導いてやれるのか。新選組と共に居る運命を作ったのは千鶴自身である。帰るかどうかも解らないが、江戸で綱道をただ待っていたのならばこのような運命になる筈もなかったのに不運な女だと、出逢った当初は思っていた。ただ、それだけだ。なのに、すっかり幹部達と同じ位置に、傍にいるのが当たり前になっていた。
(もしも、綱道さんを信じ江戸で待っていれば…千鶴は危険な目に遭わないまま風間の嫁になっていた)
 風間はあのような男ではあったが、はじめからおとなしく嫁として父親から引き合わせていれば、鬼だろうが人間だろうが変わらぬ、親が用意した縁談を済ませ、戦争と関わりの無い場所で幸せに暮らしていたかもしれないのだ。
 今更気に病んでも仕方の無い事ではあるが、全て千鶴が自分で切り開いた運命だった。自ら江戸から出て男装をして京に来て、千の申し出を受けずに新選組に留まる選択をしたのも千鶴で、土方が千鶴を思って江戸に置いてきたのに、また自ら男装をし、蝦夷に出向いたのだ。そう考えれば今斎藤が千鶴を守る義理はないのかもしれない。
 しかし、情というものがある。哀れな娘だという同情ではない。共に戦ってきた仲間として、自分達の志を千鶴もまた願うようになっていたのだ。武士の生き様を信じ、徳川幕府を信じながらも内面が崩れそうになっている現実、武士の象徴だったものが崩れていく様を目の当たりにしながらも、それでも武士としての道を全うしようとした新選組の仲間だった。どんな時でも笑顔を見せていた千鶴が、一応笑顔を見せてはいるが、斎藤の知っている笑顔とはほど遠く、ひとりで江戸に住む危険があり、心配だったのだ。土方が千鶴にとってどれだけ大きな存在だったのか、理解していたつもりだったが、想像以上だったのだ。試衛館時代から土方の周りに女がいない時はなく、本人もまんざらではなさそうで、土方の隣に女がいるのはごくごく自然で、本気になって、泣きわめく女もいたのだが、こんな風に無理して笑顔を作り、土方の傍にいられない寂しさを紛らわせている女の姿を見たのは初めてだったのだ。今までの土方と女の別れは死別ではなかったが、もしそれが死別だったとしても、きっとこんな風にはならなかっただろうと思ってしまうのは千鶴に対しての情があるからだけではないという確信があった。
 せめて、夜ひとりで涙を流さずにいられるまではと、斎藤に何が出来るというわけではないが、ひとりよりもふたりの方が気が紛れるだろう。蝦夷で千鶴の世話をしていたという人達もきっと同じ思いがあったに違いない。今でも心配だが、おそらくもっと酷い状態だったのだろう。ここまで回復するまで、一体どれ程の涙を流したのか。いや、涙さえ流せなかったのかもしれない。

「また、斎藤さんに心配かけちゃったな……」
 洗濯物を取り込みながら、今朝のやりとりを思い出していた。心配をかけさせたくない。顔を合わしている時は極力笑うようにしているが、夜ひとりでいるとどうしても涙が溢れてくるのだ。蝦夷にいる時は我慢出来ていたのに、古い…という程でもないが、昔の知り合いに、共通の強い思いを持つ人に、会えると思っていなかった人に会えただけで、気持ちが緩んでいるのだろうか。だから、涙が溢れてしまうのか。
「斎藤さんは優しいから、心配かけたくないのに……」
 はぁ…と、大きな溜め息をついた時、近所に住んでいる人だろうか、目が合ってしまった。極力外に出ないよう、出ても時間をずらして行動しようと心がけていたのに、出口の無い悩みに気持ちを取られている内に時間が経っていたようだった。
(ど、どうしよう…こっちに来る…あ、挨拶は…しなきゃ。でも、先に名前…言わなきゃ……どっ、どうしよう……)
 あたふたしていても、その女性は真っ直ぐ千鶴に向かって歩みを進めていた。
「こんにちは……」
 優しそうな笑みを浮かべ、伺うように千鶴に話しかけると「こ、こんにちは……」と、頼りなさげな返事しか出来なかった。
「あの、あなた…藤田さんの……?」
 違います。
 そう言いかけて、止めた。違うのならば何だと問われた時に答えがないからだ。斎藤に迷惑をかけるわけにはいかない。この際妹だと言ってしまおうかとも思ったが、斎藤に兄弟がいるのか知らないし、いたとしても妹はいないかもしれない。そして、それを目の前の人は知っているおそれがある。嘘をついてしまってはやはり斎藤に迷惑をかけてしまうだけなのだ。
 どうしよう。何て答えればいいのか。言葉を失くし、俯いていると
「俺の妻だ」
 目の前の女性の後ろから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「さいっ…」
 斎藤さん、と言いかけて止めた。
(そうだ。斎藤さんはもう斎藤さんじゃないんだ。それに――)
 今「俺の妻だ」と言われた気がする。助け船を出してくれたのだと、すぐに解った。
「あら、やっぱり? 実は昨日見かけてもしかしてって…思ったけど紹介されるまでは待とうと思ったのよ」
 しかし、今日目が合ってしまい、逸らせるのはどうかと思い、声を掛けたと続けた。少し離れているとはいえ、隣に住む住人なのだから、挨拶をしておきたいと声をかけたのだ。
「すまない。突然の事だった故、祝言もまだ挙げてはおらぬのだが、彼女とは古い知り合いで、戦争の前に約束をしていたのだ。斗南に来ると決まった時に、今までの生活と変わってしまう故、苦労をかけてしまうと、そのままにしておいたのだが、心配をしてきてくれたのだ」
「どちらから?」
 蝦夷、と言おうとすると「江戸だ」とだけ言い
「千鶴、長旅でまだ疲れが取れぬのだろう? 部屋に入っているといい」
 両手一杯の洗濯物を抱えて立ち尽くしていた千鶴に声を掛けた。
「落ち着いたら、ご近所にも、職場にも挨拶をしようと思っている故、今日の所は……」
「あ、そうですね。ではまた改めて」
 千鶴を追いかけるように、斎藤も部屋へと向かった。

「すみません」
「何故あんたが謝る」
「だって…ご近所の方には顔を見られないようにしようと思っていたのに……」
「いずれ解る事だ」
「ですが、斎藤さんに嘘をつかせてしまいました」
 うなだれる千鶴から洗濯物を取り上げ
「その事で、あんたに頼みがある」
 居間に正座をしている斎藤の前に向かい合わせで千鶴も正座をした。
「私に出来る事ならば」
 小さな集落だ。すぐに先程の話が広まるに違いない。斎藤が言った言葉だから誰もが信用する事となり、千鶴は後ろ暗い思いをせずにここで暮らせるが、斎藤には窮屈な思いをさせてしまうのではないかと危惧していたので、それが少しでも取り除けるのならばと、真っ直ぐに見つめた。
「その……」
「はい、何でしょう」
「言いにくい事なのだが……」
「何でも仰って下さい」
「今日一日考えていたのだが、これが一番いい案だと思うが、しかし…あんたに迷惑を掛ける事になってしまう故……」
 どうしたのだろう。普段の斎藤がこのように歯切れの悪い物言いは決してしないし、初めて見る姿で、戸惑いを感じたが、千鶴を妻だと言ってしまった為に重大な何かがあるのかもしれないと、神妙にしていると
「俺の妻となり、夫婦としてここで暮らして欲しい」
「え?」
「あぁ、勿論かりそめで良いのだ」
「ですが…斎藤さんにご迷惑がかかってしまいます」
 もしも、縁談の話が出た時等、折角の話を千鶴が邪魔をするのではないかと訴えると
「邪魔をしてくれても良い」
「え?」
「俺は結婚をする為にここにいるのではない」
「はぁ……」
「無論、夫婦だと言ってもかりそめ故、特別何かをして欲しいわけではない。屯所にいた頃と同じように暮らしてくれて良いのだ」
 ともかく、あんたは何も心配せず、そのままいてくれれば良いと言われてしまえば今の千鶴には「はい」としか答えられなかった。