穹の刻
時を綴る 3

(斎藤×千鶴)

 斎藤とふたり暮らしとなったが、屯所にいた頃と何ら変わりはなかった。違うのはふたりきりという事と、洗濯物、食事の量が少ないという事のみだ。今斎藤がどのような立場で、どのような暮らしをしているのかは聞いていない。
「もし、ご近所の方と会ってしまったらどう答えればいいんだろう」
 誤魔化す必要はない。昔馴染みで世話になっている。それ以上でも、以下でもない。だが、斎藤は男で、千鶴は女だ。婚姻も結んでいない男女が同じ屋根の下で生活をする等はしたないと言われて当然だから、隠れていた方がいいのではないか。千鶴自身の為、というわけではなく、斎藤の為に。
「私が迷惑をかけてしまっているのだから、斎藤さんがご近所の方に悪く言われてはいけない」
 斎藤は考えなかったのだろうか。好き合っているわけでも、将来を約束したわけでもない男女がひとつ屋根の下で暮らしているのが周囲に知られてしまっては斎藤に不利になってしまうのではないかという事を。改めて斎藤と話し合わなければならないと、場合によっては自分はここを出て行った方がいいと考えた。江戸に行くというのではなく、江戸に近い場所ならば大丈夫ではないかと。
「こんな事を言えば、また斎藤さんに危ないからここに居ろって言われちゃう」
 これでは堂々巡りである。千鶴は斎藤に迷惑をかけたくないし、斎藤は千鶴を危険な場所に行かせたくない。ふたりが通したい意見は正反対なのだ。一応今は千鶴が譲歩してはいるものの、斎藤の立場が危うくなってまでここにいるべきではないと考えてしまうのだ。
 慣れた手つきで洗濯をすると、掃除をはじめるのだが「屯所にいた頃も、斎藤さんの部屋はいつも綺麗だったな」と、昔に思いを馳せながらこれまた慣れた手つきでこなしていく。元々綺麗な部屋だった為、掃除はあっという間に終わってしまった。家具も殆どない、きっと、結婚していた時もこんな感じだったのだろう。言葉数が少ないが、優しさ、思いやりを持っている人だ。眼を見れば全てではないけれど、解るような気がする。自分の事よりも先に他人に気を遣う。そんな人だから、土方は信頼したのだ。間者という危ない仕事も信頼していないと任せられないものだと、改めて感じていた。
 ぼんやりと隅々に斎藤を感じる部屋を見ていると、ここにいるのもいいかもしれないと思えて不思議だった。斎藤に迷惑をかけてしまうと思いつつも、斎藤の優しさに甘えてみるのも悪くないという考えが浮かんでしまったのだ。
「でも、本当にいいのかな」
 もう決めた事ではあるが、つい考えてしまう。だが、斎藤と再会したのは本当に嬉しかったのだ。戦死したと聞かされていたし、生き残った隊士達と二度と会えないと思っていた。会ってはいけないのだと、思っていた。
「そういえば…永倉さんや原田さんはどうされてるのかな……」
 原田もまた戦死したという噂を耳にもしていた。あの強い原田が…と思うのだが、何があってもおかしくはない。そんな戦争だった。斎藤と再会して、欲が出たのか、次々に屯所時代の懐かしい顔が浮かんで、涙が浮かんだ。きっと、皆にはもう会えないだろう。斎藤との再会は奇跡だったに違いない。
「土方さんが…会わせてくれたのかも……」
 もしかすると斎藤も同じように感じているのかもしれない。だからこそ千鶴を放ってはおけなかったのだろう。改めて斎藤の気持ちが理解出来たような気がした。自分がここで何か出来るとは思えないけれど、ささやかな、静かだけれど、優しい時間を作る手伝いが出来たらと、その為にはどうすればいいのか考え始めた。

「藤田さん、明日なんですが……」
 家の外で声がし、耳を傾けると斎藤ともうひとりの、声の感じから斎藤と年頃は同じ位だろう男の声が聞こえた。だが、藤田と呼んだ声は斎藤ではなく、もうひとりの男だった。そして、それに応えたのは斎藤だった。
「藤田、さん……?」
 そうか。今、斎藤は藤田と名乗っているのだろうと、そこで知る事となった。
「もう斎藤さんじゃないんだな」
 だからといって、斎藤が変わったわけではない。昔と変わらず真っ直ぐな眼をしている。ただ、名が変わっただけだ。
「名の、事か?」
 振り向くと話を終えて家に入っていた斎藤が立っていた。
「あっ…斎藤さん。お帰りなさい」
「ただいま、千鶴」
 心なしか斎藤の頬が朱に染まっているような気がしていたが
「斎藤さんは今、藤田さんと名乗られているんですね」
「あぁ、藤田五郎と、容保公に名をいただいたのでな」
「そうですか。では、私も藤田さんとお呼びした方がいいでしょうか」
 もしかすると斎藤一の名では元新選組三番組組長であると言っているようなものだから、周知に広く知られてしまうのは良くないのではないかと思ったのだ。御陵衛士から帰ってから名を改めていた事も思いだしていた。
「いや、今までと同じで構わぬ」
「ですが―――」
「構わぬ、と言っている。ここにいる者達は俺が元々新選組に所属していた事を知っている者もいる」
 会津藩の生き残りがここにいるのだから当然である。だが、名を変えていたのだから、斎藤一だと知る者は多くはないのではないかと千鶴がその旨を言うと
「構わぬ。名を変えたと言っても、皆知っている事だ」
「えっ…?」
「近藤さんや土方さんも名を変えていただろう。しかし、名を変えた所でそれまでの自分を消す事等出来ぬ」
「それは…そうですが……」
 名を変えて逃れようとしても、過去からは逃れられないのは千鶴も見ていた。それでも逃れる為に名を変えたわけではなくとも、前に進もうとしている人の妨げになるような行動はしたくはなかったというのが正直な気持ちだった。
「もう俺を昔の名で呼ぶ者はここにはおらぬ。だから、千鶴だけにでも呼んで欲しいと思う」
 信念に向かって一番真っ直ぐに進んでいた時代に名乗っていた名だからな、と懐かしそうに笑みを浮かべた。
「では、これからも斎藤さんとお呼びしますね」
「あぁ」
「あ、斎藤さん。おなか空いてませんか? 夕餉の支度は出来ているので、すぐに食べられますけど」
「では、いただこうか」

「本当にあんたは料理が上手いな」
「そう言って貰えると嬉しいです」
「同じ材料を使っても俺ではこのような料理を作る事は出来ぬ」
 普通商売をしているわけではないのならば男が料理等作る事はない。一人暮らしをしている男でも作る事はないだろう。しかし、ここ斗南のように料理屋があるわけでもないのだから自炊して当然ではあるのだが……
「ふふっ」
 真剣な顔で料理を眺めながら言う姿がおかしくて、思わず笑ってしまっていた。
「何がおかしい」
「すっ、すみません。おかしいんじゃなくて、少し、微笑ましかったといいますか……」
 訝しげに千鶴を見つめている斎藤にどう言えば誤解が解けるかと、料理を上手く作れるかどうか真剣に言う男の人は料理人以外いないのではないかと思ったのだとしどろもどろに説明をすると
「そう、だな。俺は新選組にいた頃…いや、壬生浪士組の頃があったから食事の支度をするようになった故」
「新選組になる前ですね」
「あぁ。はじめは八木さんの所で用意して貰っていたのだが、人数が増えてそういう訳にもいかなかった故、自分達で用意するようになったのだが……」
 殆どの料理が食べられた物ではなかったと、苦笑いを浮かべた。
「そういえば…沖田さんのおひたしを水洗いされてましたね」
「醤油の味しかしなかったな」
 見事に全員が料理を洗いに行ったのだ。沖田までもが。
「ご自分で食べる事を考えてらっしゃらなかったんですね」
「何も考えていなかったのだろう」
 そんな事、と思わなくもなかったが、一緒に食事当番をした時を思い返すと適当に食材と調味料を入れて、それを窘めると「誰も味なんか解らないよ」と、にっこりと笑っていた姿を思い出した。その時に「近藤さんも食べられるんですよ」と言うと「じゃぁ、千鶴ちゃんが全部作ってよ」と、そそくさと勝手場から逃げ出してしまったのだ。その話をすると「そういう男だ」と、そっけない物言いではあったが、どこか懐かしそうに千鶴には見えた。まだ病気になる前の、元気だった頃の話に花が咲いた。飽きもせずに土方にいたずらを仕掛けていた話になると
「どうして土方さんにばかりあんないたずらをしていたんでしょうか」
「近藤さんを慕っていたからだろう」
 何故近藤を慕っていたら土方にいたずらをするのかそこが繋がらなくて小首をかしげていたのだが
「土方さんのように信頼されたいと思っていたんですね。だから――」
「あぁ」
 だから、土方にやきもちを妬いていたのだ。背伸びをしても届かないのが解っていたから。土方を憎んでいたのではないのは周知の事ではあったが、深くは考えなかったのだ。
「でも、最期は…土方さんを守って下さいました」
「そのようだな」
 土方だけを守ったわけではない。きっと、千鶴も守りたかったのだろう。沖田が珍しく女子を構っていた姿が浮かび、千鶴を憎からず想っていたに違いないと、斎藤は初めて沖田の想いに気付いたのだった。