穹の刻
時を綴る 2

(斎藤×千鶴)

 どうして自分はここにいるんだろう。不思議な気持ちでならなかったが、世話になったのに黙って出て行けない。しかし、江戸の家が気になるし、昔共に生活をしていたとはいえ、ふたりきりで生活をするのは躊躇われる。斎藤が外で何を言われるか解らないというのが一番怖かったのだ。自分の為に、悪い事を言われてしまうのではないかと危惧してしまうのである。
 だが、急ぐ旅ではない。もう何年も帰っていない家だ。待っている人ももういない。ならば、どう危ないのか知ってからでも遅くはないと思い直し、綺麗に片付けられた家ではあるが、掃除と洗濯をしておこうと、昨夜借りた寝間着と、斎藤が着ていた寝間着等を洗濯しようと桶に着物を入れて、庭に出た。
 昔と変わらず斎藤は黒の着物を纏っていた。寝間着は流石に黒ではなかったが、黒に近い濃い色の物で、今朝もまた黒の着物を着て仕事に向かった。変わったのは袴姿だったという位か。
「袴の方が着流しよりも動きやすいと思うんだけど、そういえば、斎藤さんはずっと着流しだったけど、何か理由があるのかな。でも、どんな着物でも斎藤さんには関係なかったのかも」
 屯所にいた頃も皆の…といっても、千鶴を知る幹部のみのだが、彼らの隊服や着物を洗濯した物だが、あまり斎藤は千鶴に洗濯を頼まなかったのを思い出した。「自分でやるからよい」と、余程忙しい時以外は全て自分の事は自分でしていた。激務なのだから、それ位は手伝いたかったが、申し出た所で「構わぬ」という答えが返ってくるのは容易に想像がついたので、それ以降申し出る事は一度もしなかった。今考えると、元からの性格というのもあるだろうが、千鶴の負担を少しでも減らそうとしてくれていたのではないかと考えてしまうのは再会してからもまた、変わらず斎藤は千鶴を気遣い、仲間のように優しい眼を向けていた為。
「斎藤さんも、はじめから優しかった」
 真っ直ぐで、いつも。
 そして、今回もまた千鶴を心配しているのだ。新しい世の中になり、負けた旧幕府軍に属していた者がどういう扱いになっているのか等、実は考えた事がなかったのかもしれない。ただ、土方がこの世にいないという現実を認めたくなくて、見ない振りをしていた。ずっと留守にしていた家に戻ろうと思ったのはそろそろ現実と向き合わなければいけないと、漸く周りが見え始めたからだ。しかし、見えた気がしていて実は何も見えていなかった。ずっと現実逃避をしていたから、今もまだその感覚の中に浸っているのだろうか。
 ひとりでいると、悪いように考えてしまうのはひとりでいるのに慣れていないからなのか。ひとりでいる事に慣れていた筈なのに、数年前に江戸を出てから千鶴だけがそう感じていただけかもしれないが「仲間」とずっと一緒に生活をし、それまでは父とふたりだけの生活に不満はなかったが、初めて味わう賑やかな時間を長く過ごした。ひとりで家に戻り、ひとりで生活するべく蝦夷を離れたが、急に不安が押し寄せる。斎藤の申し出は嬉しい。だが、斎藤に甘えてはいけないのではないだろうか。また、斎藤に結婚の話が出た時に自分がいては邪魔になるだけで、斎藤にとって、利点はない。
 ぐるぐると答えの出ない考えが頭から離れないまま、洗濯、掃除をする手は休む事なく、元々掃除の行き届いた家なので家事はすぐに終わった。特にやる事もなくなってしまい、居間に座り込むと、思考回路は一気に負へと向かった。
 まずは斎藤の話を聞いてから。
 これ以上斎藤に迷惑をかけたくない。
 ひとりでいるのが怖い。
「駄目だな…ひとりでいると、弱気になってしまう……」
「斎藤さんに迷惑をかけたくないのに」
「迷惑だとは思ってはいない」
 見渡すとすっかり日が暮れていて、仕事を終えた斎藤が立っていた。決して気配を消していたわけではないが、俯いて負の考えに囚われていた千鶴は突然の声に驚き、身体をビクッとさせた。
「さっ…斎藤…さん……」
「どうした」
 どうしたと言われても、自分の思考を言えずにいると
「俺は迷惑だとは思っていない。寧ろ、おまえが危険な目に遭わせたくない。それだけだ」
「ですが、今は結婚はされてませんが、またそのような機会が巡ってきた時に私がここにいては……」
「………」
 沈黙の理由は千鶴が危惧している理由と同じだと思い
「だから、危険なのは解りますが、やはり江戸に帰ろうと思います」
 不安な気持ちを見せてはいけない。少しでもくみ取られてしまうと、きっと優しい斎藤は手を差し伸べるに違いないと、真っ直ぐ斎藤を見つめた。
「俺はここに嫁を探しに来たわけでも、所帯を持ちたいと思っているわけでもない」
「……え?」
「一度失敗しているからというわけではないが、以前も上司に勧められて断る理由がなかった故、所帯を持っただけだ」
 だから、千鶴は気兼ねする事なく、ここにいればいいと、同じように真っ直ぐに見つめ返した。
「で、でも…また勧められるかもしれないじゃないですか」
 何故斎藤の結婚を中心になっているのか千鶴も斎藤も「何かがずれている」と感じながらも、どう言えば斎藤の負担になりたくないと思っているのか、千鶴を危険な場所に行かせたくないと思っているのか、互いを思いやる気持ちを伝えなければと、論点がずれているものの、気にしている所が「斎藤の結婚」ならばと、斎藤は
「勧められると決まったわけではない」
 だが、勧められる可能性は高い。もしまた勧められて婚姻を結んだとしても斎藤の生活は変わらないだろう。以前と同じように。しかし、斎藤にとってただそれだけだったのだ。新選組は負け、武士の時代もなくなった。斎藤自身、今迷いがないわけではない。どう生きていくのか道が見えずにいたのだ。
「おまえが気にする事はない。今江戸は本当に危険な場所なのだ。幕府側に属していた家族までが襲われている。そんな中、千鶴がひとりで住んでいると新政府側の誰かに知られでもしたらどうする」
「どうする…と言われても……」
「昨日も言ったが、おまえの顔は知られているだろう。土方さんの傍にいたのだからな」
 新選組の副長。それだけで名前も顔も広く知られていたに違いない。名前を変えても、だ。近藤同様、土方もまた名を変えてはいたが、淡い抵抗でしかないと知るのは斎藤自らも何度も名を変えたからである。名を変えても「新選組三番組組長、斎藤一」の名はついて回る。同時に斎藤がやってきた事も全て。後悔はない。信念を持って、自らの意思で行動してきた事だが、千鶴は違う。新選組に関わる事になったのは父、綱道が幕府の命で江戸から京に出て、変若水と新選組に関わり、その後行方知れずとなってしまったからだ。勿論、その後の千鶴の行動は自らの意思での事ではあるが、キッカケを作ったのは新選組でもある。その責任を…とまでは行かないが、普通ならば穏やかな日常を送っていた筈の彼女が、一転して命の危険を感じなければいけない日常に変わってしまった。戦争もとりあえずは終わり、これから漸く穏やかな日常を送れる筈だというのに、ここでもまた新選組と共に行動をしていたというだけで、江戸に戻れば命の危険とまで言ってしまうのは大袈裟かもしれないが、穏やかに暮らす保証がなくなってしまっている。どこにいるのか解らない京の鬼である千に連絡も取れないのならば、京からも、江戸からも遠いこの場所にいるのが一番良いのではないかと考えていると、伝えた。
「もう一度言う。迷惑だとは思わぬ。暫くここに住め」
「………」
 素直に頷けずにいると、昨夜泊まった部屋を開けて「この部屋を使うと良い」と、改めて何がどこにあるのかという説明を始めた。頷くでもなく、首を横に振るでもなく、ただ黙って説明を聞くと
「あの…おなか、空いてませんか?」
「あぁ、空いているが」
「良かった。支度をしていたんです」
「そうか、ではいただこう」
 返事を待つつもりなのか、それとも何も言わないのが肯定の意味だと思ったのか解らないが、斎藤は何も言わなかった。ただ、昔と同じように少し唇の端をあげて黙って食べていた。
 屯所時代とは打って変わって静かな夕餉だったが、斎藤も千鶴も当時と特に何ら変わりはなかった。騒いでいたのは藤堂をはじめとする永倉、原田を中心とした面子であって、彼ら以外の面子は特に騒いだりもしなかったのだと妙に静かな食事だったが、落ち着かない雰囲気ではなかった。

 斎藤の申し出に甘えてしまおうか、それとも江戸に戻らなくても、どこか別の場所でひとりで暮らしていくか、実はまだ迷っていた。あれ以上斎藤は何も言ってこなかった。夕餉中も特に話をせず、ぽつぽつと「美味いな」と、まるで独り言のように言った程度だ。勝手場で食器を洗っている時もまたぐるぐると考えていた。しかし、昼間にひとりで負の考えに囚われていた時とは違い、前向きに自分のこれからを初めて見つめ直せたようなそんな気持ちになっていた。
 部屋に戻ると、布団と寝間着が用意されており、屯所に戻ったような錯覚に陥る程、そこはもう「千鶴の部屋」のようになっていた気がしたが、用意されていた寝間着はどう見ても男物のようで、恐らく女物の寝間着はあの一着のみだったのだろう事が想像出来た。そのたった一着の寝間着は洗濯をし、箪笥に直した筈なのだが、目の前にあるそれは男物だった。思う所でもあったのだろうかと、首をかしげた。
「そういえば、初めて部屋を用意して貰った時、柄は男物だったけど、丈とかは丁度良かったのはどうしてだろう」
 今まで気付きもしなかった事だった。流石に女物を用意出来ないというのは理解出来るが、柄は男物だが、丈は女物で、特別にあつらった物のように感じられた。
「八木さんに頼んで、男物の寝間着の丈を切って作り直して貰ったのだ」
 勿論声の主は斎藤である。
「おまえの独り言は変わらぬな」
 昨日も同じ事を言われた気がすると、ゆっくり振り向いていつの間にか後ろに立っていた斎藤を見上げた。
「俺は丈を直す事が出来ぬ故、今日はそれで我慢してくれ」
「あの…でも、昨日は……」
 奥方様の…いや、元奥方様の、という言葉は言いにくかったので、女物があったのに…という言葉を続けると
「いや、その…夕べは何も考えずに用意したが、あまり気分の良いものではないのではないかと思ったのでな」
 気分の良いものではない……?
「でも、古着屋とかもありますし、私も蝦夷では古着を着てましたよ」
 そう言われてみればそうか、と、何を心配していたのか千鶴には解らなかったが、元々綱道と住んでいた頃は姉がいるわけでもなかったし、母もいない千鶴には古着所かお下がりですら縁はなかったけれど、特に古着が嫌だと感じた事は一度もない。
「そ、そうか。ならば、俺の寝間着でなくても構わぬな」
 気付いていないようだが、今手元にあるそれも「斎藤の古着」と言ってしまえば、古着なのだ。ただ、直接知っている人が着ていた物、全く知らない人が着ていた物というだけの差なのである。何をどう心配していたのか、やはり解らなかったが、そんな所までに気配りをしてくれる斎藤に
「あの…斎藤さん」
「何だ」
「斎藤さんのお言葉に甘えて、暫くお世話になります」
 深々と頭を下げた。