渇望の、果て
(斎藤×千鶴)
朝、決まって同じ音で目が覚める。まだベッドでまどろんでいたいが、味噌汁の匂いに誘惑されるかのように少々重い瞼を擦りながら寝室を出ると
「おはようございます、はじめさん!」
「あぁ、おはよう。いい香りだな」
「はじめさんの好きなお豆腐のお味噌汁ですよ」
今にも味噌汁に手を出しそうな夫に「先に顔を洗ってきて下さいね」と、笑みを浮かべて言うと
「解っている」
悪戯を見透かされた子供のような顔をするのは千鶴の前だけである。一も自覚があったし、千鶴もまたそんな一の表情を独り占め出来る幸せを感じていた。
「千鶴、今日は残業になる故、遅くなる。だから夕飯は先に食べてくれ」
「待ってますよ」
「本当に遅くなると思うのだ。俺も何か小腹に入れる可能性がないとは言えない故」
「解りました」
「すまぬ」
「はじめさんが謝る事はないです。お仕事なのですから」
でも、無理はしないで下さいね。と言われれば、無理をしてでも早く帰らなければと思うのだが、それは決して千鶴には言わないでおく。元より、一はいつも仕事が終われば同僚の誘いは殆ど断り、早足で家路につくのである。
「会社の方との親睦も大切にして下さいね」
千鶴にはいつもそう言われているが、親睦と言われても、高校時代からの見知った顔ばかりなので、特に親睦を深めようとは思わないのだ。しかし、取引先との付き合いならば時間を割いている。これもまた仕事の内と思いつつも、心のどこかで千鶴が自分の為に夕食を作って待っている姿が浮かんでしまい、理性と必死で戦っているのだが。
何か小腹に入れるから、と一は言っていたが、絶対に何も腹に入れずに帰ってくるのは知っていた。そう言えば千鶴が気兼ねなく先に夕飯を食べられるだろうという優しさからである。
腹を空かせて帰ってくる一の為に、千鶴は夫の好きな食材を使った献立を考えるのだが
「何だか精進料理みたい」
紙に書いた献立は豆腐中心の物ばかりになり、ある程度腹は膨れるだろうが、疲れているのだからもっとスタミナのつく料理にしようと、豆腐はサラダに使い、メインはチーズの入ったハンバーグにしようと、まだ昼にもなっていないのに、夕飯の事で頭がいっぱいになっていた。
尋常じゃない速さで仕事を終わらせて、予定よりも早くにタイムカードを押し、一はいつものように早足で家路に向かっていた。朝、あぁは言ったが、千鶴は何も食べずに一を待っているに違いない。勿論、美味い夕食を用意して笑顔で出迎えてくれる筈だ。
「はじめさん、お帰りなさい!」
「ただいま、千鶴」
「今日も暑かったですね。先にシャワー浴びてきますか?」
「そうだな」
「はじめさんがお風呂に入ってる間に夕飯の支度しておきますね」
「あぁ、楽しみだな」
「麦酒も呑まれます?」
「そうだな。冷やしておいてくれ」
解ってますよ、と千鶴は冷蔵庫から冷凍庫に麦酒の缶を入れて、凍る手前のキンキンに冷えた麦酒を用意するようになったのは最近の事である。
ダッシュで仕事を片付け、疲労困憊している筈なのだが、愛する妻の顔を見るだけでその疲れはどこかに吹き飛んでしまう気がしているが、湯船に浸かっているとやはり疲れているのだなと感じながらも、早く家路に着くよう多少無理をしてしまうのは千鶴との時間を少しでも長く持ちたいと思っているからだ。
新婚だから。
周りはそう言うが、一は違う気がしていた。きっと何年経とうが同じ事をするだろう。どれだけ疲れて帰ってきても千鶴は労い、夫の体調を気遣い、精神的にも心地の良い空間を作ってくれるだろうし、一の隣で微笑んでくれるだけで、それだけで良いと感じてしまうのだ。
出逢ったのは高校一年の終わり。桜が咲きそうな春のはじまりのあの日。それは運命でしかないと、今でも鮮明に覚えていた。
一目惚れ。
言葉にしてしまえばそれだけの事であるが、意味のある出逢いだったに違いない。互いに初恋で、何をするも初めてで、それが嬉しくて幸せでならなかった。
(いつか結婚をするのだろうなと漠然と考えてはいたが、まさか高校の時にその相手と出逢えるとは夢にも思わなかったし、学生の頃は勉学に励むべきだと、それが当たり前の事だと思っていたのだがな)
千鶴と出逢ったからこそ、勉学に励み、学生生活は更に充実し、全てにおいてプラスアルファの効果があったように感じるのは千鶴もまた努力家だったからである。恋愛は勉学の妨げになるだけだと思っていたけれど、互いの気持ち次第なのだ。
今考えると当たり前の事ではあるが、剣道部の試合等で騒ぐ周りを見ているとどうしても無駄な物にしか思えず、嫌悪していた一が恋人を作ったと知れた時の周囲の驚きを自分自身でも感づいてはいたが、浮き足立った気持ちがなかったとは言わないが、だからといってそれまで培ってきた物を台無しにするのは考えられなかったし、きっと千鶴も同じだっただろう。まさか学園長と教頭まで応援してくれるとは夢にも思わず、それは驚いていたのだが。
(土方先生には全て見えていたのかもしれぬな)
今でも付き合いのある世話になった先生と、そして仲間達。相変わらずの絆で結ばれており、実は天霧とも繋がりを持っていた。天霧だけでなく、不知火、そして風間ともなのだが。
(未だに千鶴を「我が妻」と言うのを止めさせねばならん)
普段から彼らと会っているのだが、走馬燈のように高校時代を鮮明に思い出してしまうのはどういう事だろうと思いつつも、湯船に浸かったままではのぼせてしまうと、水のシャワーを軽く浴びて風呂場から出、リビングに向かうと夕食が用意されていた。
「はい、はじめさん」
冷凍庫から麦酒と、同じように冷やしていたコップを取り出しテーブルに置く。
幸せだなと、感じる瞬間でもある。
「千鶴……」
「はじ…んっっ」
ベッドの中、いつものように腕の中に千鶴を閉じ込めて、唇を重ねる。段々深くなっていくそれに、柔らかく抵抗の仕草を見せて「はじめさん…明日も仕事、ですよね?」と、何度聞いたか解らない言葉を耳にするのだが
「仕事だな」
「だったら……」
「大丈夫だ」
「な、何が大丈夫なのか解りません」
「千鶴が気にする事はない」
耳朶に口付けを落とし、左手で柔らかいと知るその肌をまさぐっていった。
「!!!」
斎藤一の朝はいつも早い。
早いのだが、目覚ましが鳴るよりも三十分以上早く目覚めるのは珍しい事である。
「ゆ、夢…? 俺は何という夢を……」
何度も千鶴との時間を過ごす夢は見てきた。
それはまるで振り返るような内容だったり、これからの予定を先に夢で見るというパターンだったのだが、それでも夢は夢である。断片的であり、一本筋の通った内容ではなかった。
願望が夢に出てくるのはある事だと斎藤も知っていたし、剣道の大会前は勝ち進み、優勝する場面を見た事があったのだが、ここまでリアルなのは初めてだったのだ。
「欲求不満…なのだろうか」
千鶴に触れたいと思うのは自然の事だと思うようにしている。
好きだから触れたい。
しかし、自分達はまだ高校生であるし、何よりも大切にしたいと思っている。自分の先走った感情で千鶴に触れるなんて事はあってはならない。
それでも、どうしようもない感情が溢れてしまう時もある。手を繋ぐ度に、口付けをかわす度に、愛情は深まっていくばかりだった。悪い事ではないし、きっと千鶴も同じだと信じていたが、だからといって、簡単に行動にしてしまってはいけない事も多々ある。
暫くはあまり千鶴に触れないでおいた方がいいのではないか、と思うのだが、きっと自然に触れてしまうだろう。先走った感情ではなく、愛情から。
「い、いや! それでも、控えねばならぬ」
どれだけ自然であったとしても、行きすぎてはいけない。
「ちっ、違う事を考えねば……」
はじめさん……
千鶴はずっと斎藤を名で呼んでいた。そう、寝室でも、ずっと……
「だ、駄目だ。他の事を考えねば……!」
何とか、忘れようと、考えないようにと、頭の中を数字だらけにしてみても、千鶴が斎藤を呼ぶその声だけは頭から離れなかった。
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