トコ、ゴコロ

(斎藤×千鶴)

 急速に進めてしまったふたりの距離だったが、斎藤は満ち足りていた筈だった。千鶴に避けられてしまうまでは。ずっと触れたいと、近付きたいと思っていたのだ。ただ、傍にいるだけでいい。想ってくれるだけで、どれだけ至福な事か。千鶴を慕う男達を見ていると隣で歩いてくれているだけで充分だという気持ちにもなる。
 しかし、心底惚れている女が隣にいて、冷静でいられる筈がないのだ。腕の中に千鶴がいて、気持ちが高ぶらないようにする術は斎藤には持ち合わせていなかった。距離を縮めたいと願ってはいたが、あの時、何も考えられなかった。吸い寄せられるように、気が付いたら唇を重ねており、千鶴の柔らかさに溺れた。
 抱き締めたのは数回。五本の指でも余る程だ。手を繋ぐのが漸く自然になったばかりのふたりには突然の急接近となってしまったが、これで良かったと当日は思っていた。だが、次の日千鶴に避けられ、その原因が実は斎藤は以前付き合った人がいて、慣れているのでは…という誤解からというものだった。誤解とはいえ「慣れている」と思われたのは実はショックだったのだ。
(人を好きになったのは千鶴が初めてだ。他の誰かに懸想等……)
 紛らわしい態度をいつ取ってしまったのか。ただ口付けをしただけで、勘違いしてしまうものなのか。千鶴も初めてだから、何が慣れているのか、慣れていないのか区別がつかなかっただけだろう。
 それでも、あの時の斎藤の鼓動を聞けば、どれだけ高鳴っていたのか、どれだけ緊張していたか、どれだけ千鶴を好きなのか伝わった筈なのに…と、思わずにはいられなかった。いや、どれだけ好きなのかは伝わっている。ただ、慣れているか、慣れていないか、それだけ。
 もう誤解は解け、千鶴は斎藤にとって初恋の相手だと伝えてある。再び誤解する事はない。
 それでも…千鶴に再び避けられるような事は避けたかった。互いに想い合っているのに避ける等、意味のないものでもあるし、淋しいという感情がこれほど辛いものなのだとあの日思い知り、もう二度と経験したくなかったからである。
 折角縮まった距離を再びあの頃…という程昔ではないが、あの頃に戻したくなかった。ならば、千鶴にも同じように思って貰うしかないと考えたが、うぬぼれでなければ、千鶴も同じように思ってくれているのではないかという感覚はあった。手を繋げば柔らかく握り返してくれるし、抱き寄せれば、硬直するものの、身体を預けてくれる。おそらく、恥ずかしいだけなのだろうと想像はつくし、恥じらう姿も愛らしいと、結局どんな千鶴も好きなのだと、考えがそこに落ち着くと、どうしようもないのだが。

 ひとりで考えた所で、この問題は答えが出ない。ふたりの問題なのだから、まずはいつでも受け入れられる状態に斎藤がいればいいのではないかという結論が一応の所出た。
 結局、斎藤は千鶴に触れたいだけなのでは…という考えも浮かぶ。
(い、いや…決してこれはいやらしい意味ではなく、愛しいと想う故だな……)
 誰かに触れたいと思ったのは初めてだ。
 傍にいたいと思ったのも、愛しいと感じたのも。
 全て、千鶴と出会って生まれた感情である。
 満ち足りた気持ちと、乾きが同時に生まれる。
 満ち足りている筈なのに、何故こうも乾いてしまうのか。千鶴と会っていない時の自分は自分でないような気持ちにさえなってくる。
(これが誰かを好きになるという事、か……)
 改めて、大きな変化が自分に起きているのだと再確認をしていた。正直、昔は恋愛等にうつつを抜かすのはどうかと、馬鹿らしいとさえ思っていた。やらなければならない事はもっと沢山ある筈なのに、一時の感情に流され、精進する気持ちすら無くしてしまうのは愚の極みだと。
 なのに今、斎藤はまぎれもなく千鶴に溺れていた。毎日これ以上好きになれないと思うのに、逢えばまた気持ちは大きく膨らんだ。この気持ちに限界はないというのか。同時に欲望も増えていく。斎藤の眼には千鶴は純真無垢に映っていたし、実際の所そうなのだろう。
(同じ初恋だというのに、何故こうも違うのか)
 男と、女だからなのだろうか。
 千鶴ならば、このどす黒い感情を包んでくれるのではないか、消してくれるのではないかとさえ、感じている。
(ならば、俺は千鶴になにが出来るのか。勉強を教える…というのはまた違うか。もっと、精神的な何かが出来ないだろうか)
 聞いた所で千鶴は「いつも優しくして下さってます」と言うだろう。斎藤に対してもっと貪欲になってくれれば良いと思うのだが、無理な話だ。
(やはり、俺は自分の器を大きく持つしかないか)
 それと…触れたいという感情を、好意の、愛情の延長なのだと、伝えれば良い。
(しかし、どうやれば…そこが問題なのだ)

「おはよう、千鶴」
「おはようございます、先輩」
「毎朝大変だな、斎藤」
 千鶴の隣にいたのは教師の原田だった。また千鶴の心配をしていたのだろうか、それともたまたま遭遇し一緒に登校しただけなのか…少し気になったものの
「おはようございます、原田先生。いえ、これも仕事故……」
 何でもないように返した。
「でも、おまえの仕事のボスはまだ来てねぇようだな」
 実は最も斎藤が尊敬する教師である土方は遅刻の常習犯…とまではいかないが、それに近い。どれだけ尊敬し、風紀委員のボスであったとしても、斎藤は容赦しなかった。時間がくれば門を閉じ、土方でさえも締め出しをする。
「おまえ、本当に容赦ねぇな」
 原田は苦笑いしながらも、遅刻する土方が悪いのだから、土方の味方はしないものの、誰もが恐れる土方にこんな仕打ちをするのは校内広しといえど、いたずらを仕掛ける沖田を除けば斎藤しかいない。同じように閉め出しをしながらも、まるで他人事のように笑い、馬鹿にするのは遅刻しない日の方が少ない沖田である。遅刻に関してのみ、沖田を説教出来ないので、苦虫を噛み潰したような顔で無言のまま裏口に向かうのだ。
 おそらく今日もそうなるのだろうと小さく溜め息をつくと
「おまえ、千鶴に対して変な事考えてるんじゃないだろうな」
 早朝からいつもと違う様子の斎藤に気付いていた薫が冷ややかな声で言うと
「ばっ、変な事等考えておらぬ」
「ふぅん…あんたは仮にも風紀委員だし、この仕事に誇りを持ってるんだよな?」
「無論だ」
「だったら、解ってるよね?」
「何がだ」
「高校生らしい付き合いって、あるじゃない?」
「解っている」
「そう、ならいいんだけど、少しでも俺の妹に変な事するようだったら、何するか解らないよ」
 斎藤以外の誰にも聞こえないように、すました顔でさらりと言ってのけた。

(別に変な事ではない。千鶴に触れたいと思うのは愛しさ故……)
 いや、これは邪な思いなのではないか。千鶴が同じ想いを持っていなければ、何ら変な事ではない筈だ。

 授業の内容がここまで頭に入らなかったのは初めての事だ。考える必要もない自然に任せれば良いと解っていても、どうしても意識をしてしまう。
(とにかく、自然に)
 言い聞かせるように、千鶴との待ち合わせをしている屋上へと向かうと既に千鶴が待っており、弁当の用意をしていた。
「待たせたな」
「いえ、私もさっき来たばかりですよ」
 弁当を差し出すと、斎藤も隣に座り千鶴に自分が作ってきた弁当を渡した。
「美味そうだな」
 毎回ではないが、週に何度かはこうして弁当を交換するようになっていて、千鶴の手料理の虜になってしまった斎藤は交換する日をとても楽しみにしていたのだ。
 朝から…いや、ずっと千鶴に触れたいと思っていたからか、いつもはもう少し離れて座るのに、この日はくっついて座っていた。今更座り直すというのも不自然であったし、温かく柔らかい千鶴を感じていると愛しさがこみ上げてくる。
 ふと千鶴を見ると、どこか上の空のようで、また何か不安にさせているのかと、呼んでみても、返答はなかった。
「千鶴?」
 もう一度呼んでみると、漸く斎藤の声が耳に届いたようで驚いた顔で斎藤を見る表情が少し曇っているように映った。
「何か悩み事でもあるのか?」
 聞いた所で否定しかしないのが解っていても、この言葉しか浮かばなかった。
「いいえ! 何も」
 予想通りの返答に少しガックリしながらも、千鶴には笑顔でいて欲しいと思うし、自分が笑顔に出来ればと、常に願っていたので、何か言ってやりたいと思いつつも口下手故、いい言葉が浮かばず、再び俯いた千鶴の肩を抱き、そのまま腕の中に閉じ込めた。
「せ、せんぱ…い…?」
「俺では力になれないのだろうか」
「そんなっ、私は何も――」
 誤魔化せていると思っているのか。
「そのような顔をしているというのにか?」
 追い詰める事になってしまうのだろうか。しかし、悩んでいるのならば、解決は出来ずとも、話を聞いて心を軽くしてやれる。頬を撫でると
「違うんです。私……先輩が好きすぎて…でも、恥ずかしくて、どうすればいいのか…解らないだけなんです」
 小さな声で呟くように一気に言った言葉に、ドクンと、斎藤の鼓動は大きく高鳴った。
「……っ…!!」
 心から愛しいと想う相手に同じように想われて、同じように悩んでいたのかと思うと、抱き締める事しか出来なかった。
「俺も解らぬ。しかし、おまえに触れたいと思う。恥ずかしい気持ち以上に千鶴に触れたいと思うし、触れずにはいられない。それがおまえを戸惑わせていたのだな。だが、離して等やれん」
 千鶴にとって、性急過ぎたのだろう。それでも、縮まった距離を元に戻せない。戻したくなかった。千鶴の肩に顔を埋めて、斎藤もまた心の中を吐露していた。
「離さないで下さい。私も先輩に触れたいです」
 この一言は斎藤を喜ばせ、そして、更に距離を縮めたいと望んでしまった欲望をはっきりと自覚する羽目になり、今朝の薫の言葉が頭の中で活字になって現れた。
(変な事はしない。するつもりはない。しかし――)
 もっと深く触れたいと望んでしまった気持ちをどうすれば抑えられるのか。そして、これは変な事なのだろうか。恋人同士なのだからいずれは…と思うものの、自分達はまだ高校生なのだと、壊れる程抱き締めたいと思いつつも、腕の中の柔らかい千鶴を大切にしなければと、更に悶々としてしまう事になった。


 オトメ、ゴコロの斎藤さんverです。
 思春期の男の子だから、絶対に悶々してるだろうな…と(笑)
 まぁ…これからも悶々していただこうかと、思っております。