トメ、ゴコロ

(斎藤×千鶴)

 急激に縮まった斎藤と千鶴の距離。戸惑いながらも、千鶴は漸く本当の恋人同士になれたのではないかと幸せな、甘い気持ちを必死に表に出さないようにしていた。斎藤と千鶴の仲は学校でも、家でも公認なのだから、隠す必要はないのだが、隠しておきたいし、ふたりだけの秘密にしておきたい。特に…まさかあの斎藤にあれだけの甘さがあるとは夢にも思っていなかった為、驚きはしたものの、嬉しかったのだ。大切に想ってくれているのはその態度から伝わっていたが、いかにも…という程ではなくても、少しは甘い部分があるのは知っていた。恐らく千鶴同様斎藤もまた照れ屋なのだろうと思っていただけに、激しさを持った愛情に恍惚となってしまう程、溺れてしまったのだ。
「は、恥ずかしい…でも、嬉しい…なんて、先輩には言えないよ」
 はぁ、と、溜め息をついて、鏡で自分の顔を見ると見事に真っ赤になっていて、こんな顔は誰にも見られたくないと、あれ以来千鶴は円周率をまるで呪文のように唱える事が多くなった。どうせならば、テストに出そうな問題を数式や英語の単語等が浮かべば、体中の熱も取り除けるし、勉強にもなるのに…なんて都合の良い事を考えるのだが、そう上手く事が運ぶなんてあり得ないのは知っていた。
「もう少し、ゆっくりでも良かったかな……」
 性急過ぎて心が付いてきていないような気がしていたが、心の底から嬉しかったし、そうなれて幸せだったのだ。少し否定的になってしまうのはただ恥ずかしいから。キスをした次の日は「もしかしたら、斎藤にとって初めての恋ではないかもしれない」という嫉妬心から意識をしなかったが、誤解が解けた今、どんな顔をして会えば良いのか。もしもまた甘い雰囲気になった時にどうすれば良いのか。思わず逃げてしまうのではないか。逃げてしまってはきっと斎藤が不安に感じるかもしれない。逆の立場だったらきっと千鶴は不安に感じるに違いないから。だからといって「はい、どうぞ」というのはまた違うかもしれないが、どう対応すれば恋人らしい振る舞いになるのか、答えが見つからなかった。

 早く斎藤に逢いたいのに、足取りが重かった。百面相をしてしまいそうなので、薫や藤堂の通学時間とは別の時間に家を出たのだが、学校が、門が近付いてくるにつれて鼓動が速くなり、意識していないと右手と右足が同時に出てしまう程の緊張が千鶴を襲った。
「どっ、どうしよう……」
 どうしようも何も、普段通り「おはようございます」と挨拶をし、教室に向かえばいいだけの話だ。
「はぁ……」
 何度目の溜め息か数えられない程、朝から溜め息が千鶴の口からこぼれていた。
「今度は何に悩んでんだ?」
 目と鼻の先にある門から隠れるように電柱の隙間に立ち止まっている千鶴に原田が声を掛ける。
「あ、おはようございます。原田先生」
「おはよう、千鶴」
 眩しい笑顔を浮かべ、原田が立っていた。昨日と同じように…いや、昨日とは違う意味で悩みの渦に入り込んでしまった千鶴に、再び手を差し伸べた。
「贅沢な悩みなんです」
 だから、大丈夫です、と少し頼りないが笑顔を浮かべた。
「そうか」
 じゃ、行こうぜと言わんばかりに歩き出し、千鶴も後を追いかけるように電柱の影から抜け出て斎藤の待つ校門へと歩き出した。
「原田先生、有難うございます」
「んぁ? 俺は何もしてねぇけどな」
「背中を押してくれました」
 恐らく、千鶴が何に悩んでいるのか、原田には手に取るように解っていたのだろう。いや、原田だけでなく、それなりに恋愛経験があり、鈍くなければ誰もが気付いていた事なのだが。
「斎藤ならば、どんなおまえでも受け止めてくれるよ。照れる気持ちは解らないでもないけどよ、男としてはそういう時逃げられたり、避けられたりしちゃ、ショックが大きい。甘えて欲しいもんだから、素直に甘えてりゃぁいいんだよ」
 簡単に言われてしまったが、千鶴にとって、それが一番難しい問題なのだが、原田が言うと本当に簡単なのではと思えてしまう。
「が、頑張ります」
「だから、頑張る必要はねぇっつってんだけどな」
 頭をポリポリとかきながら「ま、千鶴らしい、か」と、苦笑いを浮かべ、客観的に見れば誰にでも解る事でも、当人同士だからこそ気付けない部分がある。斎藤もまた千鶴程ではないが、少し視野が狭くなって、余裕がないように見えていた。だが、女には甘いが、男には厳しい原田である。兄貴肌ではあるが、恋愛に関しては男は甘やかすつもりはなかったし、斎藤も原田に甘える事はないだろう。

「おはよう、千鶴」
「おはようございます、先輩」
「毎朝大変だな、斎藤」
「おはようございます、原田先生。いえ、これも仕事故……」
「でも、そのおまえの仕事のボスはまだ来てねぇようだな」
 沖田や藤堂程ではないが、実は土方もまた遅刻の常習犯である。尊敬する教師ではあるが、甘さは決して見せず、恩師にも沖田達同様、平然と締め出しを容赦なくする姿を実は原田は密かに楽しみにしていた。遅くまで仕事をし、寝不足なのだろうが、だからといって遅刻をしていいというものではない。学園長である近藤は土方に(土方だけではないが)甘さを見せていたが、それ以外の教師達はいつも眉間に皺を寄せている土方に中々意見等出来るものではなかった為、生徒にそのような態度を取られている姿は少し…かなり、楽しみでもあるのだ。
「あ、そう言えば……原田先生!」
 原田を追いかけ「今日の授業の事なんですけど――」と、ひとりきりの女子生徒の為、男と同じ運動量では…と配慮されていたが、あまりにも配慮されすぎていると良くないと思うのか、授業がある日は内容を確認するようにしていたのだ。そういう真っ直ぐな姿勢も原田は好感を持っていて、また甘やかしてしまうという原因になっている事にまだ千鶴は気付いていないのだが。

 昼休み、今日は久しぶりに屋上で弁当を食べていた。今日もまた互いに弁当を作り合い、それぞれの家の味を堪能していた。
(何だか、昨日よりも距離が縮まってるような気がする……)
 それは心の距離ではなく、物理的なふたりの距離である。ほんの少しだが、斎藤の体温が感じられる距離。つい先日までは隣り合わせに座っているものの、互いの体温を感じる程の距離ではなかったのだ。
(無意識に…なのかな。それとも……)
 無意識だろうが、意識的にだろうが、どちらでも嬉しい。斎藤の体温は心地が良かったが、段々速くなっていく鼓動が気付かれてしまうのはとてつもなく恥ずかしい事だった。斎藤は好意故、距離を縮めてくれているのに、どうして自分はこんな風に緊張するしか出来ないのかと、軽い自己嫌悪に陥ってしまう。一緒にいる今はいっぱいいっぱいで、思考回路が上手く働いてくれない。
「…る、千鶴?」
「あ、はい?」
「何か悩み事でもあるのか?」
「いいえ! 何も」
 何もありません。ただ、先輩が好き過ぎて、意識してしまって、どうしていいのか解らないだけです等言える筈が無い。自分ばかりが好きなのではないかと思ってしまう程、斎藤はとても余裕があるように千鶴には見えていた。自分は子供過ぎるのではないか。互いに初恋同士なのに、どうしてこうも違ってしまうのか。千鶴は斎藤から深い愛情を注いで貰っているが、はたして千鶴は自分の想いがきちんと斎藤に伝わっているのだろうか。伝わっていないとしても、どうすれば伝えられるのか、こうして体温の感じられる距離にいるだけで、ふわふわした気持ちをどこにやればいいのか戸惑っているというのに、斎藤の心を満たせる術等、千鶴には見つけられなかったのだ。
(本当は私も、先輩に触りたい。手だって…繋ぎたい)
 でも、まず恥ずかしい気持ちがあるから、自分から斎藤に触れられないし、もしも自分から行動をした時に「女から」と、思われないだろうかという心配が生まれてしまっていた。
(嫌われないかな。じゃあ、どうすればいいんだろう)
 好きなのに。
 距離が縮まったというのに、自らその距離を作ってしまっているのではないだろうか。何を話せばいいのか解らない。家に帰ると「沢山話したい事があったのに」と、後悔するに決まっている。本当は会えるのが楽しみだったのに。昼休みは長くふたりきりでいられる時間だから、有効に使いたいのに。
 どうしていいか解らず、俯いている千鶴の肩を抱き、そのままやんわりと腕の中に閉じ込めた。
「せ、せんぱ…い…?」
「俺では力になれないのだろうか」
「そんなっ、私は何も――」
「そのような顔をしているというのにか?」
 違う。いや、違わない。悩んでいないと言えば嘘になるが、斎藤が心配しているそれと、千鶴の悩みは違う。早く誤解をとかなければ、昨日のようなすれ違いになってしまう。
「違うんです。私……」
 顔を見て話をするのは恥ずかしい。ならば、優しい温もりを感じながらであれば、口に出来るかもしれないと、斎藤の胸に顔をうずめて「先輩が好きすぎて…でも、恥ずかしくて、どうすればいいのか…解らないだけなんです」と、小さな声で、早口で一気に言うと
「……っ…!!」
 一瞬斎藤が硬直したように感じられたが、すぐにぎゅっと力強く千鶴を抱き締めた。
「俺も解らぬ。しかし、おまえに触れたいと思う。恥ずかしい気持ち以上に千鶴に触れたいと思うし、触れずにはいられない。それがおまえを戸惑わせていたのだな。だが、離して等やれん」
 言葉の通り、強く千鶴を抱き締め少し苦しそうな声で言うのだが、耳元から聞こえたその声は千鶴にはとても艶やかで、甘美なものとなり一層頬を染めながらも
「離さないで下さい」
 私も、先輩に触れたいです。
 漸く口に出来た言葉は斎藤に至福の時を与えるが、それと同時に鉄の理性がどこまで通用するか、我慢大会になる事を意味しているのだが、それは千鶴の知る所ではなかった。


 大好きだからこそ、近付くのが怖い…というのがあるかな…と思ったんです。
 好きだからこそ、何も出来なくなってしまう。
 慣れてしまえば…というのはちょっと違うかもしれないけれど、恋人同士でいるのが当たり前になった時に「どうしてあの時あんな風に避けちゃったんだろう」と思うけど、つきあい始めだからこその初々しさっていいなと思うんです。いいなって思うけど、歯がゆいんですよね。素直になればいいのにって。斎藤さんから見れば遠慮しているように見えてしまうんだろうな。でも、素直になった千鶴を前に一体どれだけ冷静でいられるんでしょうね。