せな、くちびる

(斎藤×千鶴)

 部活を終え、斎藤と千鶴はいつものようにふたりで下校していた。付き合うようになってから徐々に甘くなっていった。それはとても自然で、急に何かが変わるというのは「恋人同士になる」以外は無く、本当にゆるやかで、心地良かったのだ。千鶴だけで無く、斎藤にとってもゆるやかな時間は心地良かったが、もどかしさもあった。
 千鶴に触れたい、もっと知りたい。
 その願い…いや、欲望を抑えるのは苦ではあったが、苦ではないと感じられたのは傍にいつも千鶴がいて互いに想い合っているから。心が満たされていたからでもあるだろう。しかし、手を触れれば、急激に欲求は願望が増していき、突然訪れた距離を縮める時間を過ごせて、幸せの絶頂にいた。躊躇いながら手を繋ぐのも楽しみのひとつだった。恥じらう千鶴は愛らしく、自分はその千鶴の恋人なのだ。だから手を繋ぐ権利を得たのだという喜びを感じていた。だが、今日は躊躇うという思考よりも先に千鶴の手に触れ、指を絡ませた。普段ならば、学校から離れた場所で行動をするのに、門を出る前に手を伸ばし指を絡ませた。
 千鶴は自分の恋人である。
 と、既にもう周知の事ではあるが、見せつけるように。恥じらい指を解こうとする千鶴の指を強く、強く握りしめた。
 突然の斎藤の独占欲に驚いたものの、揺るぎない斎藤の行動は千鶴の心を満たしていた。斎藤は普段から誰にでも分け隔て無く優しくて、そして他人に、自分には一層厳しく真っ直ぐな男だ。土方や原田は「堅苦しい男だ」と言いつつも、その眼からは親しみが感じられていた。
 自分が好きになった人は欠点等どこにもない完璧な人なのに、自分は落ち度だらけで、魅力等どこにもない。なのに、どうして好きになってくれたのだろう。好きになればなる程、不安が大きくなっていく。
 もしも、その不安を斎藤に打ち明ければきっと優しく不安を取り除いてくれるに違いない。
 しかし、不安がなくなるのは斎藤と一緒にいる時間だけ。家路につけば「あぁ言えば良かった。こうすれば良かった」と、後悔する事は稀では無かった。

「今日は…帰りに何を話したか覚えてないよ……」
 緊張しすぎて。意識しすぎて、どうすればいいのか解らなかったが、強く握られていたからではなく、自らの意思で解きたくないと温もりをもっと感じていたいと思っていた事しか覚えていなかった。本当はそれ以上に忘れられない出来事が昼休みにあったのだが、どう考えればいいのかすら解らない程に、混乱していた。
 嫌だったわけではい。
 寧ろ、嬉しかった。
 ファーストキスは大好きな人と。場所はロマンティックな所で…等、夢を見ていた。これが初めての恋だったから余計に夢ばかりが膨らんだ。綺麗な花の咲く場所で…と。
 悪者に追いかけられ、それを助けてくれたヒーローと見つめ合い、キスをする。
 想像以上にロマンティックで、見上げた大好きな人の顔はとても嬉しそうで、優しい表情で、これ以上の幸せなんてどこにもないと今でも眩暈しそうな程の時間だった。だからこそ、また不安が生まれる。いつも千鶴を上手くリードしてくれる斎藤はこれが初めての恋ではないのかもしれない。今はもう千鶴と付き合っているのだから、斎藤の相手は自分だ。他の誰でも無い。だから不安になる事はない。頭で解っていても、自分の想像に押し潰されそうになっていた。
 誰なのかも解らない。本当にいるのかすら解らない相手に嫉妬する等馬鹿げている。それでも、出口の見当たらない想像が千鶴を支配してしまっていた。数時間前までのあの幸せな時間は何だったのだろう。素直な、純粋に斎藤を好きだという気持ちすらどす黒い物になってしまったのではないかと思ってしまう程に落ち込んでいた。 斎藤からの「おやすみ」メールすら上の空で返信し、携帯電話の待ち受けにしている写真を見る事も出来なくなっていた。隣に写っているのは紛れもなく千鶴だというのに。

 楽しみにしていた本を読む気にもなれず、早々にベッドに入ったが睡魔は一向に訪れなかった。漸く眠れたのは明け方になってからで、憂鬱な気持ちのままだった。
 少しでも綺麗に見られるように、と化粧はしていないが、洗顔、そして保湿等のケアをいつも以上に念入りにし、飽きられないように、前の彼女よりももっと好きになって貰えるように、まず見た目から頑張るしかない。そう思い、鏡とにらめっこしていた。
 髪型を変えてみようかとも思ったが、高く結い上げたポニーテールを斎藤は以前「可愛らしいな」と褒めた事があった。もしも髪型を変えてしまっては嫌われる…とまではいかなくても、ガッカリさせてしまうのではないか。結局いつもと変わらない姿で登校するのだが、門に立っている斎藤の顔をまともに見る事が出来なかった。
「お、おはようございます」
「おはよう」
 いつもならば、視線を交わし笑みを浮かべるのに、千鶴は顔を上げる事が出来なかった。これではまるで避けているように見える。そんな事すら考えられない程に、今の千鶴には心の余裕が少しもなくなっていた。

「先輩は私のどこを好きになってくれたのかな……」
 屋上でぼんやりと校庭を眺めながら呟くと
「そういう事は本人に聞いてみるべきじゃねぇかな」
 返事をしたのは斎藤ではなく、教師の原田だった。
「原田先生…!!」
「斎藤と喧嘩でもしたのか?」
「いえ……」
「でも、周りにゃそう見えるし、斎藤も避けられてると思ってんじゃねぇのか?」
「避けてなんか!」
「俺には斎藤を避けているようにしか映らなかったぜ?」
 俺にそう映ってるって事は斎藤もそう感じてるかもしれねぇな。と言われて、今日の自分の行動を思い返してみると、幾度か顔を合わせる度に何か言いたそうにしていた斎藤の顔が浮かんだ。
「喧嘩したわけじゃねぇなら、何があった? まさか斎藤が浮気をした…なんて事はねぇか。ありえねぇな」
「斎藤先輩は全然悪くないんです。悪いのは私なんです……」
「斎藤に言えねぇ事か?」
 俯いたまま、コクンと頷くと
「話してみろ」
 同じ年の兄とは違う年の離れた兄のような、そんな笑みを浮かべて千鶴の顔を覗き込んだ。
「先輩が素敵過ぎて……」
「斎藤が、か?」
「はい。素敵過ぎて、私には過ぎた彼氏じゃないかって…不安になったりするんです」
「過ぎたって…千鶴――」
「私じゃ釣り合わないかもって……」
 原田の言葉を遮るように、大きくなった不安を打ち明けた。
「考えすぎだぜ、千鶴」
「それに――」
「それに?」
「前の彼女の事が…気になってしまうんです。気にしても仕方が無いって解ってるんです。でも、考えちゃうんです。きっと私なんかよりも素敵で、先輩にお似合いな人だったんじゃないかって……」
「斎藤の元カノに嫉妬して、斎藤を避けてしまってたって事か」
「……はい」
 はぁ…と、深い溜め息をつき、千鶴の頭を撫でて
「斎藤にその話をした方がいい」
「こんな事言えません……」
 嫉妬深い女だと思われたくない。こんな思いを抱えているだなんて知られたくなかったのだ。
「よー、斎藤。おまえだって千鶴から話をちゃんと聞きたいって思ってるよな?」
 驚いて振り返った原田の視線の先を見ると、斎藤がゆっくりと出てきた。
「せん…ぱ…い……」
 いつからそこにいたのか。
「俺がここに来たすぐ後から、そこにいたみたいだぜ。おまえの事が気になって仕方が無かったようだな」
 千鶴が何かを抱え込んでいるのに気付いていた。しかし、その原因を掴めず、千鶴と話をしたいと、もし原因が自分にあるのならば、悩ませている何かがあるのならば、どうにかして解決したいと千鶴を追いかけたが、原田に先を越されてそこに留まっていたのだ。原田が斎藤の気配を感じ取っていたのも、それを斎藤が感づいている事に原田が気付いて、キリの良い所でバトンタッチしたのだ。
 そして、言葉にこそしていなかったが、千鶴の疑問に答えると、もう一度ポンポンと頭を撫で「んじゃ、後はふたりで話をしろよ」と、千鶴の傍を離れた。
「大事な恋人を泣かせるんじゃねぇぞ」
「解って、います」
 すれ違う時に一言ずつ言葉を交わして、原田は屋上を去った。

「先に言っておくが、千鶴が初めての彼女だ」
「……えっ?」
「異性を好きになるのも、千鶴が初めてだ」
「う…そ……」
「嘘では無い」
「で、でも…剣道の試合の時とか…沢山の女の人に囲まれたり、ラブレターを貰ったりしてるじゃないですか」
「……そう言われても、本当なのだから仕方が無い」
 ゆっくり歩み寄り、千鶴の目の前に立つと、そっと指先に触れた。
「こんな風に触れたいと思ったのも千鶴が初めてだ。抱き締めたいと思ったのも、口付けをしたいと思ったのも千鶴が初めてだ」
「せ、先輩……」
「どう言えば、何を言えばおまえは安心するのか。俺は千鶴にそんな顔をさせたくはないのだ。笑って、くれないだろうか」
 斎藤の求める笑顔になっていないと自覚はしたが、唇の端を上げた。
「ごめんなさい」
「そうだな。心配させた責任を取って貰わねばならぬな」
「…は、い……」
 どういう償いを求められるのか覚悟をしてじっと見つめると
「しかし、おまえに夢中になり過ぎて、不安にさせてしまったのは俺だ。先に俺が責任を取ろう」
「先輩…あの……?」
 触れていた指を絡め取り、その指を引き寄せ腕の中に閉じ込める。
「せっ…先輩……」
「俺は口下手故、おまえを不安にさせてしまうのかもしれぬ」
 だから、行動でどれだけおまえに想いを寄せているのか知って貰うしかないな、と昨日柔らかいと知った唇に自分の唇を重ねた。


 先にタイトルが生まれました。珍しい事です。タイトルが先で、話は初ちゅーと、その後の今回の話が浮かび、どちらにつけようか悩んだのですが、幸せだと実感するのはこちらの方かな…と、こっちにしてみました。
 付き合って、好き同士なのに不安というものは消えて無くならないのは何故なんだろう。きっと千鶴もまたそこに落ちるんじゃないかと思って、悩める千鶴と、相変わらず真っ直ぐ千鶴が大好きな斎藤さんのお話になりました。