高鳴る、鼓動
(斎藤×千鶴)
ただでさえ、千鶴は生徒会長である風間千景に追いかけられて逃げる日々を送っていたというのに、斎藤との交際が発覚してから、風間の千鶴への執拗な執着ぶりに誰もが白旗をあげていたが、千鶴は白旗をあげるわけにはいかなかった。
「夫というものがありながら――」
「私は結婚してません!」
「何が不満なのだ」
「不満があるとしたら、私の事を妻だという風間先輩の思い込みに対してだけです!」
この数ヶ月で風間の攻撃に対してキッパリと言わなければいけないと悟った千鶴ははっきりと拒絶の言葉を風間に投げるようになっていたのだが、拒絶の言葉は全て「つんでれ」という言葉で片付けられていた。
「前向きにも程があるぜ、風間」
呆れながらも、風間を宥める天霧の横でタメ息混じりに不知火が呟いた。
「千鶴はもうあの風紀委員と付き合ってんだろ? 諦めたらどうだ」
「貴様は何を言っているのだ。千鶴は照れているだけだと何度言えば解る」
「照れて他の男と付き合うなんて聞いた事もねぇよ」
「不知火」
この男に何を言っても無駄だと言わんばかりに天霧がゆっくりと首を横に振った。ここ、生徒会室では千鶴が入学してからというもの、今まで以上に不毛なやりとりが繰り広げられていた。授業が終わるチャイムが聞こえると生徒会室から風間は出て行き、千鶴の教室へと向かった。どれだけ止めても無駄なので、黙って風間の後を天霧と不知火が着いて行く。風間と一緒になって千鶴を口説く為ではなく、風間がやり過ぎないように見張る為である。
授業が終わるチャイムが鳴ると同時に千鶴は教室を出る。高校に入ってから休憩を教室でゆっくり過ごした事は一度もなかった。この日もまた同じように非難すべく教室を出たのだが、運悪く遭遇してしまい、俊敏に進路変更をして捕まりはしなかったが、後ろから追いかけられていると「今日は捕まってしまうかも……」と、半ば諦めかけた瞬間に不意に腕を引っ張られて、暗闇の中もがいていると「千鶴、落ち着け」と、声がして見上げると、斎藤の顔が目に入った。
「先輩……」
「大丈夫か?」
「はい。有難うございます」
「しっ…」
ガラリとドアが開き、足音が響く。斎藤は千鶴を抱き寄せて、息を殺した。
「ここだと思ったのだがな」
「いないようですね」
「諦めろ、風間。こんなに逃げられてんだから、おまえもそろそろ嫌われてる事を認めろ」
「相手が斎藤というのが解せん」
「何だ、ちゃんと付き合ってるの解ってんじゃねぇか」
「違う、千鶴はこの俺の愛情を確かめているだけだ」
「何をどう確かめるっつーんだよ。毎日押しつけられてうんざりしてるだけだっていい加減に認めろよ」
中々出ようとしない三人に悟られないように、斎藤は千鶴をしっかりと抱きかかえ隣の準備室のカーテンの中でじっとしていた。もしも見つかったとしても斎藤がどんな事をしても守るだろうし、向こうには天霧がいたので、さほど心配はしていないが、それでも出来るならば見つかりたくないとぎゅっと斎藤の制服を握りしめて身体をこわばらせていた。
「ところで、風間。手に持っているそれは何ですか?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの笑みを浮かべ
「我が妻に食べさせようと弁当を作ってきた」
「は?」
「念の為に聞きますが、まさかご自分で作られた等と――」
「無論この俺が作った」
今まで台所に立った経験もないだろう風間が一体何を作ったというのか。
「千鶴、逃げろ!」
思わず叫んだのは不知火である。勿論、すぐ近くに千鶴がいるとは知らずに、だ。
「貴様、どういうつもりだ」
「風間、雪村を殺す気ですか」
たたみかけるように天霧までもが千鶴を援護する言葉が出てきて、風間は一気に不機嫌になった。
「我が妻がこれを食べたら、きっとこの俺の深い愛を知る事となり、ゴミ虫等には目もくれない程俺に夢中になるに決まってる」
風間が突然弁当を作ってきたのは「斎藤と千鶴が弁当の交換をした」という事実を知ったからに違いない。この情報をどう仕入れたのかは知る所ではないが、ふたりだけの秘密だった筈の宝物のような時間までもが土足で踏み込まれたような気がして、千鶴は更に風間を毛嫌いしてしまう要因となるのだが、自慢気に「何故それらを弁当のおかずとして選んだのか」という疑問しか浮かばないラインナップの説明を始めた風間の手から天霧が弁当を奪い、不知火に手渡すと、焼却炉へと一目散に走り、風間は奪い返すべく不知火を追いかけ、教室を出た。
「……大丈夫か?」
腕の力を少し緩め、千鶴の顔を覗き込むと「はい」と、頼りなさげに返事をし、視線を上げてほっとしたように笑みを浮かべた。
「天霧と不知火には今度礼を言っておかねばなるまいな」
「そうですね。まさか不知火先輩から逃げろって言われると思いませんでした」
「千鶴の危険を瞬時に感じたのだろうな」
そのままの体勢で話をしていたのだが、ふいに自分たちの距離に気付き、急に鼓動が高くなった。恥ずかしいが離れたくないという気持ちが生まれ、そっと引き寄せるとより千鶴の体温を感じ頬を染めながらも額と額がくっつく程に近付き「いい匂いがする」と、呟いた。
「あ、の…先輩……」
千鶴もまた離れがたかったが、それ以上に恥ずかしくて初めての斎藤との距離に言葉を失ってしまい、じっと上目遣いで見ていると、その距離はどんどん近付いて、重なった。
「んっ……」
その感触は一瞬で、自分に何が起こったのかよく解らないまま、まじまじと斎藤を見ていると、再び距離が近くなり、目を閉じる仕草がスローモーションのように写り、唇と唇が重なると今度は千鶴も目を閉じた。
千鶴の唇は柔らかく、腕の中の彼女もまた柔らかく、甘い匂いに酔ってしまったのかついばむように触れては離れ、また触れて、唇を唇で甘く噛んだ。
もっと千鶴の唇を味わっていたかったが、段々硬直し、自分の鼓動よりも高鳴る愛しい少女の鼓動を感じ、そっと唇を離して千鶴の顔を自分の胸に閉じ込めて抱き寄せて、背中を優しく擦った。
「突然、すまない」
ふるふると首を横に振って、嫌ではないという意思表示しか今の千鶴には出来なかった。
「そうか」
安心したような声で、千鶴を抱きかかえたまま、千鶴の髪に顔を埋めた。どう言えば斎藤は今の感情を上手く千鶴に伝えられるかと考えたが、口下手も加わって言葉にならなかった。
愛しい。
簡単な言葉しか浮かばず、それでは足りないと、前髪のかかる額に口付けをした。普段の斎藤からは考えられない、想像もつかない甘さに千鶴は眩暈がしそうだった。それでも腕の中から逃げなかったのは斎藤の温もりが心地良かったから。斎藤の腕の中にいるのは斎藤から告白を受けたあの日以来。温もりも鼓動の速さも同じだったが、千鶴の方が体温も高く、鼓動も速い気がしていたのは今日の斎藤に翻弄されているからなのだろう。嬉しいけれど、同じくらい恥ずかしかった。顔を上げるといつもはとてもクールな、冷静沈着な眼をしているのに、今日はとても情熱的で別人のようだったが、斎藤にこんな一面もあるのかと、千鶴は更に斎藤に溺れる事となるのだが、それは斎藤も同じで、潤んだ眼で見つめるその表情はとても艶やかで理性を保つのが精一杯だったが、その熱に確実に溺れていた。
どれ位の時間そうしていたのだろう。気が付けば昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り、そっと千鶴を離すと「昼食を食べ逃してしまったな」と、苦笑いを浮かべた。
「そうですね…でも……」
「でも?」
「胸が一杯で、きっと何も食べられなかったと思います」
千鶴も困ったような、恥ずかしいような、何とも言えない笑みを浮かべて「それに、教室からお弁当を持ってくるの忘れちゃいました」と、はにかんだ。
「俺も今日は千鶴の事を言えないが、空腹で放課後の部活は身体が持たぬぞ」
「大丈夫です」
「今日は少し軽い練習にしておけ。それでなくとも、総司がおまえに構うだけでも体力が消耗するだろう」
他人に、特に女性に対してきつい態度を取るので有名な沖田がどういう訳か千鶴を気に入り、何かにつけて構い倒して必要以上に稽古をつけるのだ。決して厳しい内容ではないが、本気ではなくても、沖田を相手するのに全力を使わなければ着いて行く事すら出来ない。この日だけは沖田の気まぐれを期待し、サボッてくれないだろうかと願ってしまうのだが、こういう時こそ期待を裏切るのが沖田総司という男だという事を斎藤は熟知しているので、部活前に購買でサンドウィッチでも買って一緒に食べようと思うのだった。
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