宙に消えた、恋心
(斎藤×千鶴)
月曜日。斎藤も千鶴も早起きをし、弁当作りに精を出していた。つきあうようになってから、共にする事が多くなった昼休みを思うと少し…いや、かなり頬が緩んでいた。
「今日はどうやって昼休みに教室を抜けようかな…薫を誤魔化すのがちょっと難しいんだよね。何かの当番とかだったらいいのにな。別に正直に言えばいいんだけど、恥ずかしいし、もし邪魔とかされたら…先輩にも迷惑かけちゃうし」
出来上がった料理を弁当箱に詰めながら、楽しみの前にあるちょっとした難関をどうくぐり抜けるか、考えを巡らせていた。見つからないように、先に鞄の中に大きめの弁当箱を入れて、朝食の支度をし、まだ眠る家族を起こすべく各部屋へと向かった。
「あら、一。珍しいわね。あなたがお弁当を作るなんて。でも、このお弁当は小さすぎない?」
元々共働きの両親の手伝いをするべく炊事もこなしている為、珍しくはないが、弁当を作る姿は見た事がなかった斎藤の母は朝食を作るべく台所へ向かうと、もう既に出来上がった弁当を目にすると、いつもと違う息子の雰囲気に「何かある」と、ふんで微笑みながら返事を待った。
「これは俺の弁当ではない」
言葉数少ない息子の相手には慣れているのだろう、短い言葉に含まれている意味を理解し
「今度うちに連れてらっしゃい」
嬉しそうに微笑むと「……はい」と、頬を染めて頷いた。
朝は必ず幼馴染みの藤堂を起こして一緒に学校に行く。風紀委員である薫は千鶴よりも早めに家を出るのだが「あんな奴は放っておけばいいのに」と言いながらも、無理矢理千鶴を連れて行く事はない。藤堂は薫の中で「千鶴の傍にいるのを認めた」男だから、というのもおかしな話ではあるが、薫にとっても幼馴染みだから当然といえば当然で、千鶴を女として意識をしつつも、藤堂にとっては薫同様元々家族ぐるみの付き合いで、互いに家族のように育ったから朝千鶴が藤堂を起こすという行動は薫にとっても何でもない事でもあった。それが中学時代皆に羨まれていたのは藤堂も知っていたが、これは「幼馴染みの特権」とそのポジションに甘んじていた。
千鶴は恋愛に関しては特に鈍く…いや、そもそも薫の妨害が当たり前だったから、どれだけあり得ない妨害をされても特に何も感じなかったし、千鶴自身異性を意識する事もなかったが、薫の妹を取り巻く男に対する反応を千鶴が気にするようになったのは高校に入学してからである。千鶴が斎藤と付き合っているのを認める姿勢を取らずに、一日に数回は「おまえに恋人なんて十年早いよ」と、言い続け相変わらずクラスメイトが千鶴に近寄ってくると「俺の妹に何か用?」と、必ず割って入ってくるのだ。斎藤と一緒にいる時にまでそんな事をされては嫌だなと危惧していたが、ふたりを目にしても斎藤は「邪魔してくれるな」という視線を投げかけ「千鶴と付き合っている」宣言をして以来、斎藤には何も言えなくなっていたのである。本人曰く「決して認めたわけじゃないからな」と負け惜しみにしか聞こえないような捨て台詞を吐くのだが、斎藤を嫌う理由もない上に、薫の目にも千鶴を大切にしていると映っていた為、表だって反対する理由はないのだが、やはり可愛い妹を盗られた気持ちは抑えられないのか、千鶴には口うるさくなっていた。もしかすると斎藤にも失礼な事を言っているのではないか…と、斎藤に尋ねると「大丈夫だ」と、きっと何か言われていたとしてもそう答える恋人に、それ以上何も言えないのだ。実際に薫が斎藤に何か言ってる姿を見かけなかったし、何もしていないのだから「大丈夫」という言葉は真実だと言えるだろう。
父親には特に話はしていないが、恐らく母親から話がされているだろうと想像がつく。だからといって「彼氏のお弁当を作る」と言うのも、用意している姿を見られるのは家族とはいえ、父と兄には異性だから恥ずかしい気持ちがあり、見られたくないとコソコソしてしまうのだ。
「千鶴、わりぃ! 走るぞ!」
母親にたたき起こされ、漸く出てきた藤堂はおむすびを片手に、もう片方の手は千鶴の手首を握り、鞄は脇に抱えて走り出した。
「もう、またゲームしてたの?」
「いーや。昨日まんが借りたんだけどさ、これが面白くって読んでたら朝になっちまって」
「朝までまんが読んでたの?」
「だってさ、三十巻もあるんだぜ。気になって寝れないって」
「もう、だからって朝まで読む事ないのに」
走りながらも、こうして話をする余裕があるのは「この時間ならばまだ間に合う」と知っているからなのだが
「ねぇ、いつも思うんだけどさ。手を繋いだままだと走り辛くない?」
突如後ろから聞こえた声に振り向くと、声の主は二人の手を自分の手で斬るように離し
「どうせ繋ぐなら僕の手にしなよ」
「あ、あの…沖田先輩」
「おはよう、千鶴ちゃん」
手を離して欲しいと言おうと思ったのだが、きっとこの人に何を言っても聞き入れてくれないのだろうなと解りつつも、藤堂ならともかく、沖田と手を繋いだままだと確実に門に立っている斎藤に見られてしまうし、誤解はしないだろうけれど、斎藤以外の男の人と手を繋ぐのは嫌だと思っていた。藤堂も「斎藤以外の男」なのだが、千鶴の中で藤堂は薫と同じ存在のようで、男扱いはしていなかった。勿論、藤堂自身も気付いていたし、斎藤も千鶴にとって藤堂は「薫と同じ」という認識なのだと知っていても、器が小さいと思われたくないが為、千鶴に「平助と手を繋ぐのはやめて欲しい」と言えないでいた。
「おっ、おはようございます。沖田先輩」
良く出来ましたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべ
「ほら、門が見えてきたよ。ラストスパートだよ、千鶴ちゃん」
「ちょっ…総司! 何千鶴と手を繋いでんだよ」
「何って…毎日平助君だけずるいじゃない。たまには僕も千鶴ちゃんと手を繋いで登校したいんだよね」
「さっき総司が手を繋いだままだと走りにくいっつったんじゃん」
「でも、毎日そうしてるって事は実は走りにくくないかもしれないし、ただ僕は千鶴ちゃんと手を繋ぎたいんだよね。登校中だったらうるさい小姑もいないしさ」
その小姑はもう目と鼻の先にいるというのに、さらっと言ってのけるのはただの口実なだけであり、人の目等気にした事等一度もない沖田に意見した所で仕方がないと思いつつも、千鶴の柔らかい手を勝手に離された憤りをぶつけなければ気持ちが収まらないのだ。言った所で倍になって返ってくる事もあるし、完全にスルーされる事もあり、藤堂にとって一瞬の抵抗でしかないのだが。
「セーフ」
千鶴が何度も「手を…」と、走りながらなので、抵抗といえる抵抗ではないが、少し振ってみたり、上手くいけば離してくれるかもしれない…という抵抗をしてみるものの、やんわり握られているのではなく、がっしりと握られている為、その手は繋がれたまま一番見られたくない恋人の眼に留まる事になった。
「その手を離せ、総司」
「汚い手で俺の妹に触らないでくれるかな」
声の主を見ると、恐ろしい程の殺意を纏った斎藤と薫が立っていた。
「嫌だって言ったら聞いてくれる?」
このふたりの殺気を目の前にしてもニコニコと笑えるのは沖田位だ。言い合っている間に何とか手を離せないかと、力を入れて見るものの、やはり手はがっしりと握られたままで、滅多に見ない斎藤の殺気におびえていたのは沖田ではなく、千鶴であった。
「聞くつもりはない」
食ってかかりそうな薫を抑え、怒りをあらわにしたまま近付き、難なく沖田と千鶴の手を解き、千鶴を解放すると、千鶴は斎藤の背に隠れるように立った。
「一君にそんな権利ないじゃない。勿論、薫にだって千鶴ちゃんを縛る権利はないと思うけどね」
もしも、権利があったとしても、僕には関係ないけど、と続けたが
「千鶴は俺の恋人故、他の男に触られたくないのだ」
一瞬静まりかえったが、大声で叫んだのは沖田ではなく、藤堂だった。
「ど、どっ…どういう事? 恋人って…一君が千鶴と……?」
「へぇ…?」
まるで知っていたかのような笑みを浮かべたのは沖田だ。
「薫、本当か? 千鶴と一君が付き合ってるって……」
薫がいながら…とでも感じたのだろうか。今までどんな風に千鶴に近付いてきた男でも蹴散らしてきた鉄壁の兄を乗り越え、あっさりと千鶴の隣に立つ権利をあの薫が許したとは信じられなかったのだ。
「平助だって解るだろ。千鶴が一度決めた事を覆す事なんて今までなかったんだからな」
それに、この男ならばと、思わなくもないとまでは言えなかった。いや、言いたくなかった。斎藤に敗北していると…そもそも勝ち負けではないが、負けたと感じていた。しかし、それを口にするのは単なる悪あがきでしかないと知っているから。
薄桜学園のマドンナが、風紀委員の堅物と付き合っている。
この話が学校中に広まるのに時間はかからなかった。相手が相手なだけに、千鶴に言い寄る生徒は殆どいないが、ただひとりだけが千鶴のクラスへと足を運び「おまえは俺の妻だ」と、言い寄るのだが、斎藤が黙っているわけがなく
「千鶴はおまえの妻ではない。俺の恋人だ」
はっきりと言ってのける斎藤に
「ふっ…おまえはつんでれという言葉を知らぬようだな」
「つん…でれ……?」
その男、生徒会長の風間に言われた通り、ツンデレという言葉、そして意味を斎藤は知らなかった。
「その顔は知らぬようだな」
何故か勝ち誇ったように笑みを浮かべると、千鶴の教室から立ち去った。
「何だよ、風間の奴」
「あの男の考えてる事等、誰にも理解は出来ぬ」
「そうだな」
教室のドアの前で丁寧に会釈をする天霧にほんの少しの同情の色を含んだ視線を投げかけ、斎藤もまた会釈をした。
「一君」
「何だ」
「千鶴の事、大事にしてやってくれよな。オレの大切な…幼馴染み、だからさ」
この時初めて藤堂の気持ちを知った。ただの幼馴染みではなく、藤堂にとってもかけがえのない存在だったという事を。
「勿論だ」
斎藤が千鶴を想った月日こそ短いが、藤堂に負けない程の愛情を千鶴に持っていると自負していたし、運命を感じていた。千鶴も同じ運命を感じてくれていたらいいと思いながら、風間の行動に戸惑いを感じ教室の隅でぽつんと立っている千鶴の元へと歩み寄った。
「大丈夫か? 千鶴」
「はい」
花のように笑う千鶴を見て「オレじゃ、あんな笑顔にさせてやれねぇもんな」と、小さく呟いた声は誰の耳に留まる事もなく、宙に消えた。
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