彩づき始めた、世界
(斎藤×千鶴)
ふたりが付き合い始めて、三週間が経った。特に何をするというわけではなく、いつものように一緒に帰り、昼休みに一緒に過ごす時間が増えた。ただ、それだけだったが、不満はなかった。欲のないふたりだからこその清すぎる交際である。
手を繋いだのも千姫に「恋人同士なのだから…」と、繋いだ時以来繋いでいない。勿論、お互いに「また手を繋ぎたい」とは思っていたが、それを口にするのが恥ずかしく、ただこっそりと手を見ては「あの温かい、柔らかい感触」を思い出し、頬を染める程度だ。
だから、誰もふたりが付き合っている等と知るよしもなかった。知っているのは千姫だけである。元々「千鶴を守る」という名目、土方からの命で毎日送っていたというのもあったから余計だろう。独占欲がないわけではない。だが、それ以上に斎藤はただふたりの時間を大切にしたいとだけ願っていたし、こんなに満ち足りた気持ちになるなんて…と幸せの絶頂にいた。千鶴が自分を想ってくれている。それだけで充分だったのだ。
「斎藤先輩、本有難うございました。面白かったです」
以前千鶴が作ったエコバッグに入れた本を手渡す。今日のふたりのランチタイムは視聴覚室だった。
「相変わらず読むのが早いな」
「面白くて…一気に読んじゃいました」
嬉しそうに微笑む千鶴だったが
「また、徹夜をしたのではないのか?」
「えっ…? もしかして隈が……? ううん、朝チェックした時は大丈夫だったのに……」
慌てて目の下を擦り始めた手をつかんで
「隈は出来ていない。擦っては目が腫れてしまう…が、やはり徹夜をしたのか」
隈が出来ていない事に安心したのだが、徹夜した事がバレてしまい、ばつの悪そうな表情を浮かべた。
「すみません」
「あんたの事だから、勉強の合間に…と、夜に本を読んでいるのだろう。俺はゆっくりで構わぬと言わなかったか?」
「言われました」
「隈は出来ていないが、少し眼が充血している。勉強をするなとも言わない。だが、無理をして授業を受けられなくなったりしては本末転倒だ」
「……はい」
しゅん…と、俯いた千鶴の頭をぽんぽんと撫で
「千鶴が無理をして読むのが予想出来たというのに、貸した俺も悪い」
「い、いえ! 先輩は悪くないです。注意をされていたのに、私が勝手に……」
「だから、今度からは注意しろ」
「はい」
「しかし…期末テストも近い。一緒に勉強するか?」
「お昼休みに、ですか? 風紀委員の仕事も大変じゃないですか?」
「いや、昼休みではなく…次の土曜日にでも図書館で勉強するというのはどうだろうか」
「はい! 嬉しいです。でも…先輩の勉強の妨げになりませんか?」
「問題ない」
「では、図書館で待ち合わせをしましょう」
何時頃がいいでしょうか…と、時計を見る千鶴を見つめていると、ふいに以前図書館に行く途中でナンパされていた事を斎藤は思い出していた。
「迎えに行く」
「え?」
「迎えに行くから、家で待っていろ」
「でも…それじゃ、悪いですし」
構わぬ。そう言うと、否定の言葉は聞かないと言わんばかりに千鶴をじっと見つめた。真っすぐな眼で見つめられると千鶴は言葉を失い、その綺麗な眼に吸い込まれるように見つめ返し「待ってます」と、素直に頷いた。
千鶴は金曜の夜からそわそわとしていた。そんな千鶴の様子が気になり、薫が「どうしたんだよ」と聞くと
「べ、別に何でもないんだけど」
斎藤と付き合っていて、明日勉強ではあるが、千鶴にとってはデートのようなものだった。しかも、初めてのデートである。そんな事を言うと反対されてしまうのではないかと、言葉を濁した。
「ないんだけど、何だよ」
「本当になんでもないの。お風呂入ってくるから」
決して誤魔化し切れていないのは自覚していたが、その場から逃げるしか術がなかったのである。風呂からあがると待ち構えていた薫から逃げるべく「疲れてるからもう寝る」と、これまた強引に部屋に戻り、翌日の事を考えると鼓動が高鳴り、一向に眠れる気がしなかったが、電気を消してベッドにもぐりこんだ。
「明日、何かあるな」
流石双子といった所か、それとも千鶴が隠し事をするのが下手だからか、恐らくその両方から明日早く起きて千鶴を見張ろうと薫もまた自室に行き、眠りについた。
「おはよう、千鶴」
勝ち誇ったように、リビングで珈琲を飲み、パンを齧っている薫の姿が視界に入る。もう逃げる事は出来ない。そう諦めモードに入るのだが「俺もついていく」とだけは言われたくない。どうすれば意地でもついて来ようとする兄を諦めさせられるのだろうと、溜息をつきながら「おはよう」と、返事をした。
「先に言っておくけど、ついてこないでね。図書館に勉強しに行くんだから」
歯を磨き終わり、用意されていたカフェオレを飲みながら、隠している事はあるが、嘘ではない今日の千鶴の予定を言った。嘘だったらきっとすぐにバレる。幸いにも、初デートではあるが、何ともふたりらしい「図書館で勉強」という内容のものであった為、嘘をつかずに済んだと心の中でほっと胸を撫でおろしながら宣戦布告を言うと
「誰と、行くのかな」
薫は斎藤を嫌ってはいない。実直で堅過ぎる所があるから、やや面倒だとは感じているものの、沖田のように嫌ってはいないから、斎藤と一緒に行くのだと言っても大丈夫かもしれない。
しかし…と、千鶴は言葉を詰まらせていた。次に「何故、斎藤と?」と聞かれては言葉が出て来ないのだ。斎藤とは学年も違う。もしこれが藤堂だったのならば同じ学年でもあるし、千鶴にとっても、薫にとっても幼馴染だから「俺も行く」とまでは言わないだろう。まぁ、成績は悪くはないが、休日に図書館で勉強をする程熱心ではないから、そんな事はあり得ないのだけれども。今更だが薫は過保護すぎるのではないかと頭を抱える事になった。
「別に誰とでもいいじゃない」
そこで、ひとりで行くのだと嘘を吐ければ良いのだが、千鶴の嘘等薫はすぐに見抜いてしまうし、そこまでの千鶴に機転がきくわけもなく、後ろめたい言い回しになっている事に気付いていたがそう答えるしかなく
「お千…ってわけでもないだろうしね?」
可能性がなくはないが、別の学校に通う友達と勉強会というのはなくはないが、この物言いで女同士で会うとは考えられなかった。
「薫には関係ないでしょ。もう高校生なんだから、いちいち私に構わないでよ」
どこまでも平行線の言い争いをしている兄妹を「やれやれ」といった感じで両親は見ていたが、特に口出しをするでもなく、これもまた「いつもの風景」と、どちらにも手助けをせずに両親は両親でソファでのんびりと過ごしていた。
ピンポン。と、本当は待ち望んでいた音なのだが、この状況では斎藤に迷惑をかけてしまうかもしれない。走って玄関に向かうのだが
「誰?」
ドアを開けたのは千鶴ではなく、一足先に駆け付けた薫だった。
「斎藤…!!」
予想していなかった相手だった。いや、恐らく剣道部の誰かだろうとは思っていたが、まさか堅物で有名な斎藤だとは夢にも思わなかったのである。言葉を失っていると
「斎藤先輩!」
「千鶴、待たせてしまっただろうか……」
「いえ、時間通りですよ。もう少しだけ待ってて貰えますか? 用意してきます」
薫との言い合いで、部屋着のままだった為、そのままの格好で斎藤の前に出るのは恥ずかしかったのだが、薫に邪魔されたくないという気持ちから思わず飛び出していた。慌てて自室へと向かい、昨日用意していた服に着替え始めた。
「まさか、斎藤だったとはな……」
「前から注意しているが、敬語を使えとまでは言わぬが、せめて呼び捨てにするのはやめておけ。心証が悪くなる」
「おまえに心配される覚えはないね」
「俺はおまえの為に言っている。それに、おまえの態度が悪いと、千鶴に不利になる時も出てくる。それでも良いのか?」
「……次に呼ぶ時は気をつけるようにするよ。それでいいんだろ?」
千鶴の事を言われてしまったのでは従うしかない。それに、斎藤が言っているのは正論で、意固地になっていても自分の立場が悪くなるだけだと思い、早々に折れた。これが沖田相手だったら、決して折れる事はないのだが。
千鶴に藤堂以外の男の客が来たと、母親までもが玄関に出てくると「はじめまして、斎藤一と申します。千鶴さんとお付き合いさせていただいてます」と、挨拶をした。斎藤の物言いはとても丁寧で、真面目な雰囲気を纏っており「まぁまぁ、千鶴はステキな彼氏を見つけたのね」と、嬉しそうにリビングに戻ったのだった。
「お、お付き合い…だと?」
「あぁ」
「俺は認めないからな」
「おまえに認めて貰わずとも、俺と千鶴はもう付き合っている」
チッと、舌打ちをするのだが、既に付き合っているふたりの邪魔をするのは野暮だと思いつつも
「とにかく、俺は認めない。千鶴にまだ彼氏なんて早すぎる」
「では、あんたに彼女が出来た時に千鶴に反対されたらどうだ」
「彼女なんて必要ないし、もし千鶴に反対されても……」
反対されようが、自分の好きにする。そう言いかけて止めた。何故なら今はその逆の立場で、千鶴もまた薫に反対されたとしても自分の気持ちを通すだろう。高校受験を決めた時のように。そして、斎藤と言い争った所で勝ち目がない気がしたのだ。どこまでも正論で、堅い物言いの斎藤にはどの言葉も跳ね返されてしまい、今まで薫が相手にしてきた男と違い、非の打ち所がなかった。だからこそ、千鶴は斎藤に惹かれたのだ。薄々は感じ取っていた事だ。それが恋愛感情とまではいかなくとも、千鶴が斎藤に好意を寄せている事、斎藤もまた千鶴に好意を寄せている事を。
一層の事、斎藤が不真面目な男だったら良かったのに。そう願わなくもなかったが、千鶴が不真面目な男を好きになるとは考えられなかったし、そうである筈がないと信じていた。
「千鶴を哀しませる事も、嫌がる事もしない。大切にすると誓う」
「………好きにしろ!」
大事な、大事な自分の片割れだ。幼い頃はいつでも、どこでも何をするのも一緒だった。双子ではあるが、妹だ。誰よりも可愛くて、大切に思っている。それはこれからも変わらない。千鶴を取られたような気持ちになっているが、千鶴は薫の物ではない。誰かと付き合ったからといって、千鶴との関係が変わるわけではない。斎藤と出会って数カ月ではあるが、人間性は同じ風紀委員として活動する中で、信用出来る人間だと頭では理解していたが、まだ心では納得出来ずにいた。それでも、そろそろ妹離れしなければいけないのかもと、心に穴が開いた気がしてならなかったが、自分よりも先に行ってしまった妹に対して、今は少し悔しい気持ちがしないでもないと、感じていた。
「お待たせしました」
玄関までの短い距離だったが走ってやってきた千鶴に「変な事されたらすぐに電話してこいよ」そう言い捨てて、不機嫌な顔でリビングに戻る薫を今からどうやってついてくるだろう薫を説得しようと考えを巡らせていた千鶴はあっけに取られていたのだが
「せ、先輩はそんな事しないもん!」
とだけ、叫んで「薫が変な事を言ってすみません」と、頭を下げた。
「構わぬ」
先程の薫との攻防を忘れ、久しぶりに見る千鶴の私服に胸を躍らせてしまい、今日こそは手を繋いで歩きたいと考えていたのだが、いつも以上に意識してしまい結局今日もまた、手を見つめるだけで終わってしまうのだった。
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