前で、呼びたい

(斎藤×千鶴)

 気がつけば、千鶴は近しい人間に「千鶴」「千鶴ちゃん」と名で呼ばれるようになっていた。教師である永倉や原田、そして…土方でさえも。それは同じ名字を持つ、彼女の兄が同じ学校にいたから…というのも大きいだろう。勿論、親しくしていても「雪村君」ととても女性を呼んでいるとは思えない呼び方をする者もいたが、それでも、彼女を名前で呼ぶ者は増えていた。昔から千鶴を「千鶴」と呼ぶ者は多かった。寧ろ名字で呼ばれる事の方が少なかったといっても過言ではない。自然に、皆「千鶴」と呼ぶようになっており「今からおまえを名で呼ぶ」と宣言する者はいなかったのだ。
 しかし…斎藤は今困惑していた。千鶴の事は「雪村」と呼んでおり、薫の事も「雪村」と呼んでいた。ふたりが一緒にいる時に「雪村」と呼び、ふたりが振り向いて「あぁ、すまない。兄の方だ」と、同じ風紀委員をしている薫に連絡事項を伝えるべく薫を呼んだ時に、単に同じ名字だとこういう時不便だと感じただけだった。だが、こういう時も「兄の方だ」「妹の方だ」そう言えば良いだけの事だと思っていたのだが。
 周りは皆「不便だ」と思えば、名で呼ぶようになっていた。「薫」「千鶴」と。本人達もそういう事に慣れているのか、千鶴に関して口うるさい薫でさえ、千鶴を「千鶴」と呼ぶ男に対して特に何も言う事はなかった。
 はじめは特に何も気にする事はないように感じていたが、斎藤が親しくしている者達がこぞって千鶴を名で呼び、彼女と親しくなっていく様を目にしていく内に焦りを感じるようになっていた。
 はじめは皆、斎藤と同じように「雪村」と呼んでいた筈だった。だが、一体いつ「雪村」から「千鶴」へと変わったのか。人当たりが良さそうで、実は全くそうではない沖田でさえ「千鶴ちゃん」と呼び、斎藤の眼にはふたりがとても親しげに映っていた。
 斎藤自身、女子を名前で呼んだ事は今まで一度もないし、これからも必要がないとすら思っていたのだが、焦りを感じていた。折角メルアドも交換し、未だ電話はおろかメールすらした事のないふたりだが、実は番号を知っているというだけで安心していたのである。「いつでも連絡を取る事が出来る」ただそれだけで、何故ここまで満ち足りた気持ちになったり、心の余裕すら持っていたのだろうか。

「よう、千鶴」
「千鶴ちゃん」
 気がつけば彼女の周りは斎藤の友人たちが囲む事が多くなっていた。彼らはまるで昔からの友人のようで、土方から命を受けた斎藤よりも近しい存在になりつつあるように見える。彼らが傍にいるというだけで、あの風間も中々近付く事が出来ず、何故メルアドを交換しただけであんなに満ち足りていたのか、今はただ親しげに名前で呼ぶ自分の仲間さえ疎ましく感じている自分に驚いていた。
 では、自分も千鶴を「千鶴」とそう呼べば良い話だ。勿論「今から名で呼んでも良いか」と聞く必要もない。しかし、斎藤には「気軽に」「自然に」女子を名で呼ぶ習慣…というのも大袈裟だが、斎藤にとっては大袈裟でも何でもなく、何かいいタイミングがなければ女子を名で呼ぶ等出来る筈もなかったのである。元々必要だと感じていたものではない。だからこそ、どうすればいいのか解らなかったのだ。もしも、斎藤が「千鶴」と呼んだとして、千鶴はどういう反応をするのか、特に何の反応もせずに「雪村」と呼んでいた時と変わらないのか、それとも驚いた顔をするのか……元々名で呼ばれるのに慣れている彼女が特別な反応をするわけもないか、と少し淋しく感じたりもした。名前で呼んでもいないのに、その時の事を考えている自分がおかしかった。
「千鶴……」
 部屋にひとりでいる時にそう呼ぶようになっていた。こうして自然に呼べばいい話なのに、ひとりでいる時に呼ぶのでは意味がない。意識しているのは自分だけだという自覚もある。
 千鶴と出会ってから、今まで感じた事のない気持ちが溢れていた。一体それは何なのか、どこから来るのか。疑問に思う事だらけだが、少し居心地の悪さを感じてはいるものの、決してそれは悪いものではなかった。あの桜の木の下で出逢い、千鶴の笑顔を見るのが好きだった。いつも笑顔でいられるよう、風紀委員として何が出来るか。たったひとりの女生徒だからこそ、大切にしたいと思っていた。勿論それは正義として。なのに、何故今名前で呼びたいと、そう願うのか。千鶴を名前で呼んでいる仲間達を何故こんなにも羨ましいと思うのか。ぐるぐると答えの出ない考えの中にいるのもどうかと思いながらも、勉強に集中出来ないでいた。

 昼休み、いつもと同じように斎藤は巡回の為、校内を歩いていた。音楽室で物音がしたので覗いてみると、そこには千鶴がいた。
「今日はここで読書か」
「あ、はい。こんにちは、斎藤先輩」
「あぁ、こんにちは。それは…図書室で借りた本ではなさそうだな。雪村の本か?」
 その本には綺麗な包装紙でカバーをされていた。書店でつけてくれるそれとは違い、恐らく千鶴が自分でつけたカバーだろう。
「はい。好きな作家さんの新刊が出たので……」
 ペラリと包装紙のカバーを捲って、本のタイトルを見せた。
「そっ…それは……!!」
 眼を輝かせる斎藤に「もしかして、先輩もこの作家さんが…?」そう尋ねると
「あ、あぁ。俺もその作家の本を全部は持っていないが、今集めている所だ。勿論図書館で借りて全部読んではいるのだが。そうか…新刊が出ていたのか。しかし、今月はもう本を買った上に来月は参考書を……」
 最後の方は独り言のように小さな声で呟いたのだが
「もうすぐ読み終わりますし、よろしければ貸しましょうか?」
「! い、いいのか?」
「はい! 先輩もこの作家さんが好きだったなんて嬉しいです。周りにファンがいなくて、淋しかったんです」
 色々話せますね。と、嬉しそうに微笑む千鶴に
「そういや、今まで読んだ本の事を誰かと話した事はなかったな」
「え? そうなんですか?」
「あぁ、本を読むのが好きな友達がいないというのもあったのだろうが、読んで、自分で消化するだけだったな」
「では、これからは読んだ本の話をしませんか? きっと楽しいと思います。それに、斎藤先輩がどんな本を読んでいるのかも興味があります」
 特に他意はないのだろうが、嬉しそうに言う千鶴に何とも言えない気持ちが湧き上がった。
「あ、あぁ。そうだな。では、互いに読んで良いと思った本の話を時間がある時にでもしよう」
「はい! この本、今日中に読み終わると思うので、明日持ってきますね」
「無理に急ぐ必要はない。雪村のペースで読んでくれ」
「いいえ。無理に…ではありませんよ」
 ほら、と残りの頁を見せて
「今日中に読み終わる量だから、明日必ず持ってきますね。凄く面白いので、早く先輩にも読んで貰いたいですし、話がしたいですから」
「では、楽しみにしている」
 いつの間にか時間が過ぎていて、予鈴が鳴り、教室に戻った。
(また、千鶴と呼べなかった)
 呼ばなければいけないわけでもないのだが、一度気にしてしまうと頭から離れなかったのだ。
(自然に呼ぶ日が来るのだろうか)
 千鶴、と。

「先輩! おはようございます」
 いつものように朝、門に立っている斎藤に挨拶をしてきたのは千鶴だった。今日は藤堂と一緒に登校していないようで、時間に余裕がある。
「おはよう、雪村」
 また「雪村」と呼んでしまった。そう思いながらも、無表情のままで他の生徒と同じ態度を見せた。
「これ。約束の本です。昨日読み終わったので」
 桜色の袋に入れられた本を手渡すと「感想会、楽しみにしてますね」嬉しそうに微笑む千鶴に「あぁ」と、そっけない返事ではあったが、少し口の端を上げて「楽しみだな」と、答えた。

 好きな作家の本というのもあってか、借りた本を読了するのに二日もかからなかった。部活が始まる前に千鶴に会い「今夜、読み終わりそうだ。明日の昼休みにでも感想会をするか」と誘うと
「え、もう…?」
 分厚い本で、しかも二段組みだというのに…と驚いている千鶴に
「面白かったのでな。少しでも時間がある時には読んでいる故、早く読み終わりそうだ」
「そうですか。では、明日の昼休み、楽しみにしてますね」
「あぁ」
「じゃあ、部活、頑張って下さい」
「有難う」

 風呂から上がり、本を読み終わると、明日どの部分から話をしようか。そして、千鶴はどう感じたのか。それを考えると自然と顔が緩んだ。今までに味わった事のない楽しみが確実に増えていて、自分の視野が広がっているのが嬉しかった。
(千鶴も俺と同じように感じてくれていれば良いのだが……)
 名前呼びを気にするようになってからというもの、頭の中では既にもう「千鶴」と呼ぶのが当たり前になっていたのに斎藤はまだ気付いていなかった。パラパラと本を捲り、印象に残っているシーンを読み返し、明日忘れてはいけないと、桜色の袋に入れて鞄の中にしまった。男同士で物の貸し借りをした時、袋に入れて渡す事がなかったので、こうして袋に、しかも紙の袋ではなく、布で作られた小さなエコバックに目をやると女らしさを感じた。このように可愛らしい袋を持ってはいなかったが、自分が千鶴に本を貸す時に入れるいい袋はないかと、まだ何を貸すのか決まってもいないのに、袋を探し始めるのだった。

 昼休みにゆっくり時間を過ごすべく、朝から風紀委員としての巡回を迅速に行っていた。この日、千鶴が読書をするのに…と選んでいたのは屋上だった。昼食もすぐに済ませて、急いで屋上に行くと、既に千鶴が待っていた。
「待たせたな」
「いえ、私もさっき来たばかりですから」
「まずはこれを…有難う」
 本を受け取ると「その…こういう袋はどこで買うのだ?」と、いきなりの質問に驚いたが
「え?」
「この、本を入れている袋だ。エコバックというものだろう?」
「あ、あぁ。これは…私が作ったので……あ! 布は近所のスーパーに入ってる手芸店で買いました」
「千鶴が…? これを作ったのか?」
 突然「千鶴」と呼ばれて、頬を染めるのだが、斎藤は彼女を「千鶴」と呼んだ事に気付かず「そうか…作ったのか…」手渡した筈のそれをもう一度千鶴から取り上げ、まじまじと眺めた。
「俺には出来ぬ」
「あ、あの…先輩?」
「いや。その…あんたに本を貸す時に入れる袋が見当たらず、聞こうと思っていたのだが……」
「別に袋に入れなくても大丈夫ですよ? ちゃんと丁寧に扱いますし、エコバックならはいつも鞄に入れてますし」
「そ、そうか。ならば…いや! 決して千鶴が本を乱雑に扱う等と危惧している訳ではなく……」
「勿論、解っています。いつも友達同士で貸し借りをする時、袋に入れていたのですが、却って余計な気遣いをさせてしまう結果になってしまったようですね。すみません」
「いや…俺の方こそ、すまない」
「あ、そうだ。もし嫌でなければ、エコバックを作りましょうか?」
「しかし、手間をかけるのでは」
「大丈夫ですよ。布もありますし、三十分もあれば作れますし」
「そ、そんなにすぐに出来るものなのか?」
 驚く斎藤に千鶴は「これは本やCDの貸し借り用に作ったので持ち手部分もありませんから、すぐですよ。先輩に合いそうな色の生地もありますし、楽しみにしていて下さいね」
「そうか。では…頼む」
「いえ…あの…」
 もじもじする千鶴に「どうかしたのか?」と言うと
「あの…千鶴って呼んで下さって嬉しかったので、そのお礼です」
 真っ赤になり俯く千鶴に、一瞬何の話かと自分の言動を振り返った時「雪村」ではなく「千鶴」と呼んでいる自分に漸く気付いたのだ。
「あ…すまない」
「謝らないで下さい。嬉しかったので……」
「ただ名で呼んだだけなのに、そのお礼というのもおかしな話だろう。俺は何かを作ってあんた…いや、千鶴に渡せる物がない故、一番好きな本をその袋に入れて渡そう。感想を聞かせてくれると嬉しい」
「はい!」

 感想会だった筈なのに、一言も本の話が出来ずに、それはまた明日にでも…と、約束をし、自然に「千鶴」と呼べた事、そしてそれに気付いた千鶴が喜び、浮かべた笑顔が頭から離れなかった。
 千鶴もまた、名で呼ばれるのは慣れている筈なのに、どうして斎藤に名で呼ばれたのがこんなにも嬉しいのか、その意味を深く考えずにいたのだが、他の誰よりも自分の名前を優しく呼んでくれているようで、幸せな気持ちになっていた。


 キャラメールで、既に斎藤さんは「千鶴」と呼んでいたので、SSLのシリーズを書き始めた時に既に「千鶴」と呼ばせていたのですが、はじめからそう呼んでいたようには思えなくて、そのきっかけになる話も書いておきたいな…と思ってこの話を書きました。
 これもまた斎藤さん悶々話…のようなものになってしまいました。結構斎藤さんは千鶴に関してひとりで悩む事が多そうだなぁ。本編でも、SSLやパロでも(笑)
 エコバックの話はそういや、男の人から物を借りた時って裸のままだなぁ…と思ったので、それもちょっと入れてみました。女子の間では結構当たり前だと思うのですが、男同士だと女同士の当たり前が違ってくるだろうな、という事で。