福への坂道
(斎藤×千鶴)

 斎藤が謹慎している高田にも、今旧幕府軍がどのような扱いを受けているのか耳に入っていた。どんな時でも情報を正しく耳に入れていたいと思っていたから余計なのかもしれないが、特に旧幕府側、特に新選組に属していた者、所縁のある者を気に掛けていた。
 といっても、自由に行動が出来ないので、自分の足で情報を手に入れるのではなく、所々で耳にする話を詳しく聞くようにしているだけだった。だからこそ、自分の目で確かめたい事だらけで、聞けば聞く程、何も出来ない自分に不甲斐なさを感じていた。

「一瀬、来客だぞ」
 斎藤一は今「一瀬伝八」と名乗っており、元新選組三番組組長の斎藤一であるというのはほぼ周知の事実ではあったが、皆、斎藤の事を「一瀬」と呼んでいた。
「あぁ」
 決まった日ではなかったが、斎藤には同じ人物の面会が何度もあった。それは旧幕府側の人間ではないからこそ許されていたのである。
「……」
 会いに来てくれという言葉は一度も掛けたりもしなかったし、次をにおわせるような言葉も掛けたりはしなかったが、その男はまるで斎藤の家族のように、彼を気に掛け、こうして面会に来ていたが、会っても、どう声を掛けて良いものか解らず、いつも斎藤は無言で部屋に入り、ただその男に視線をやるだけである。
「ご無沙汰しています」
 深々と頭を下げた男は薩摩側にいた天霧である。
「……あぁ」
 いつものように、天霧は風呂敷を斎藤に手渡した。
「そろそろ無くなる頃だと思いまして」
「前にも聞いたが、これは誰が作っているのだ。この薬を欲しがっているのは俺だけではないと思うのだが」
 言葉にして「欲しい」と要求した事はないが、助かっているのは事実である。羅刹になってしまった事に後悔はないが、人の目に晒したくないという思いもあるし、狂う事はないと思いつつも、確信はない。だから、迷惑を掛けてしまう可能性が自分にある以上、この薬はとても助かっていた。だからこそ、羅刹になった他の者にも分けてやりたい気持ちがあったのである。こうしている今も羅刹の毒に侵され、苦しんでいる者がいるのだから。
「沢山作れる薬ではありません」
「それは聞いたが……」
「旧幕府軍の人物にこれを渡す義理はない」
「しかし、騙されて町人達も飲まされているのだぞ」
 何度も繰り返しているやりとりだったが、それでも、羅刹の苦しみを知る斎藤はどうしてもひとりでも多くの者に、特に、何も知らされずに飲まされた町人に飲ませてやりたいと思わずにはいられなかったのだ。殆どの人間が斎藤のように生きながらえることなく、灰になっていたのだが、それでも、少しでも苦しみが収まるのならばと、堂々巡りになるのが解りつつ、そして今どこにいるか解らない羅刹の毒に侵され苦しむ者にまで薬をと望むのは途方も無い事だと思ってはいるが、言ってしまうのだ。
「それに約束、ですから」
「誰との約束なのだ」
「とある医者だと言っておきましょう」
「松本先生か……」
 敢えて否定もせずに、天霧は口を閉ざす。まるで誤解をしてくれと言わんばかりに。幸いにも松本良順が戦後投獄されていた事を知らないようで、これ以上話を伸ばしたくない天霧は「では、これで」と、去ろうとするのだが、斎藤にとって、天霧との面会は薬を貰うだけでなく、情報を手に入れる一番の手段だったので、すぐに帰したりはしなかった。

「その…無事、なのだろうか……」
 本当は一番に聞きたい事なのだろう。千鶴は無事に過ごしているのか、安全な場所にいるのだろうか、新選組預かりになっていた事を知られ、襲われたりはしていないだろうか。直接それらの言葉を掛けたりはしないが、短い言葉の中に千鶴への想いが詰まっているのは天霧でなくとも手に取るように解る。
「無事です。京の姫の所にいますから」
 何故天霧は同じ鬼である千の事を「姫」だと言うのか解らなかった。しかし、姫だと言われる千は千鶴と同じ鬼であり、友人である。彼女の傍にいるのならば大丈夫であろう。以前、斎藤が御陵衛士にいた頃に新選組にいたのでは風間に狙われたら危ないだろうと、千鶴を引き取りに来た事もあった程である。あの風間から守る術を持つと断言出来るのだから、新政府軍からも千鶴を守れるに違いない。京にずっと住んでいるのだから、元は長州寄りだったのかもしれないから、狙われる心配もないだろう。
 それでも、万が一という事がある。危険な目に遭っていないか、無事に暮らせているのか、千鶴を想わない日は一日たりともない。
「それでは、これで」
 今度こそ、といつも長居をしたがらず、薬を渡しさえすればそれで用はないと言わんばかりに、天霧は斎藤の元を去って行く。
(しかし、何故松本先生は俺だけに……)
 変若水を飲んだ新選組隊士は沢山いるが、生き残っている元幹部はもういない。近藤と親しくしていたから、直接の部下である斎藤を気に掛けたとしてもおかしくはない。
 今、どこにいるのかは解らないが、いつかここを出られた時に、礼を言わなければと、改めてそう思うのだった。

 松本には「いつか」会って、礼を言えばいい。
 しかし、千鶴はもう二度と会う事はない。自分が傍にいては千鶴が危険な目に遭うのは目に見えていた。どれだけ名前を変えても、新選組三番組組長、斎藤一であるのは消えないし、消そうとは思わなかったからだ。負けはしたものの、それは斎藤にとっての誇りだったからである。
 いつ殺されたとしても、それは運命だ。はじめから解っていた、頭にあった事なのだ。それだけ自分が斬り殺してきたのだから当然だが、千鶴を巻き込みたくなかった。散々巻き込んでおいてと言われるだろうが、だからこそ、これ以上巻き込みたくなかった。
 平凡な幸せを手に入れて欲しかった。
 自分達が奪ってしまった日常を取り戻して欲しかったのだ。
 考えれば考える程、今千鶴は笑顔でいるだろうか。幸せだろうか、天霧から「無事だ」と言われても、それ以上の話は聞けなかった。元より、天霧も斎藤同様寡黙だったから、必要以上の情報を口にしたりはしなかったが天霧が無事だと言うのならば、無事に違いない。千鶴に対して天霧はどう感じているのかは想像すら出来なかったが、どうやら天霧は千に対して風間以上の絆を持っているように感じていた。あの風間も「女鬼は珍しい」と、千鶴を追いかけ回していたが、純血である千を追いかけ回さなかったのには理由があるのかもしれない。風間と千とでは立場が違っていたのではないかと、今だからこそ感じていた。
 千鶴は大丈夫だ。
 何度言い聞かせても、不安は消えなかった。鬼である前に女だ。それに、千鶴には傷が早く癒えるという特性以外に鬼らしい力はないように思われた。少し剣術に自信があると言っていたが、町のいざこざに巻き込まれた時に自身を少し守れる程度だ。天霧は京でずっと暮らしているようではなかったし、千も一日中千鶴の傍にいるわけではない。千鶴の存在に気付き、千鶴を狙おうと思えば、誰にでも狙える。
 千鶴が襲われるという悪夢を何度見たか数え切れない。目が覚めてほっとするが、近くに千鶴がいないので、本当に安全なのか、確かめられない。数ヶ月に一度やってくる天霧から「無事だ」と聞くまでは安心は出来ないのである。

 ひとめ見る事さえ出来れば。
 会わなくてもいい。寧ろ会わない方がいいだろう。会ってしまえば、もう気持ちを抑えられない。誰かに幸せにしい貰えばいいと思いながらも、自分が幸せにしてやりたい気持ちは募るばかりだったからだ。

 気が付けば、高田から、脱走していた。そのまま逃亡するのではない。千鶴が安全な場所にいるか、笑顔でいるか確かめさえすれば、高田に戻るつもりだ。
 走って、走って。
 羅刹の力を使おうかと何度も思ったが、それでは斎藤の身を案じて薬を作ってくれた松本の気持ちを無下にしてしまうと、自分の力で、千鶴が住んでいるという京へと向かった。

「千鶴ちゃん! そんな事までしなくていいわよ」
「で、でも…お世話になってるから……」
「だからって、そんな事までしなくてもいいのよ。まさか、新選組にいた頃もこんな事やらされてたの?」
「やらされてたんじゃなくて、自分からやりたいって言ったから」
「本当? 男所帯だったから、こき使われてたんじゃないの?」
「そんな事ないよ。皆凄く優しくて、私、父様とふたり暮らしだったから、家族が沢山増えたみたいで本当に楽しかったんだよ」
「……それだったらいいんだけど」
「父様と一緒に暮らしてた時もこんな感じだったし、お千ちゃんは気にしないで」
 君菊に「姫様」と言われるだけあって、千が暮らす家はとても大きく、世話をする者も沢山いて、当初千鶴は戸惑いを感じていた。千鶴が何かしようとする度に千だけでなく、君菊をはじめとする女中達が千鶴を止めて「お好きな事をしていて下さい」と言うのだが、家事をするのは千鶴はとても好きだった為「これが好きな事なんです」と言っても、聞き入れられなかったが、今ではその女中達と楽しく家事をしていた。はじめこそ「雪村家の当主」だと恐れ多いと中々近付いて来なかった彼女達も今では家族のように千鶴を慕っていた。
 どこにいても千鶴らしさは変わらず、皆から慕われているのを見て、斎藤は漸く安心出来た。
(皆鬼、なのだろうな。本来ならばこうして暮らすのが自然だったというわけか)
 雪村の家がどういうものだったのか斎藤の知る所ではないが、鬼の中でも受け入れられる一族なのだと確認出来た斎藤はそのまま高田に戻った。
 悪夢を見る回数は減ったが、千鶴を想う気持ちは消える事なく、最後に見た千鶴の顔が別れる時の哀しそうな顔ではなく、笑顔に変えられたので、それだけで満足だった。

 暫くして、謹慎が解けた時に、薬を作っていたのが松本ではなく、千鶴であった事、そして、共に斗南に行くようになるとは夢にも思わなかったが、斎藤の心はほんの少しだったが満ち足りた。


 タイトルは稲葉さんのソロの曲名からいただきました。
 史実の斎藤さんは謹慎していた頃に脱走しているんですよね。
 ずっとその話を書きたくて、漸く書く事が出来ました。
 「渦巻く夜空」の途中の話という事で。