甘く優しい微熱
(斎藤×千鶴)
ふたりきりの祝言を迎え、今、一の目の前にはすやすやと眠る妻、千鶴の顔があった。何度も見てきた姿であるが、こんなに近くで、自分の腕の中で見るのは久しぶりだった。勿論、以前見たのは戦火の中、宿にありつけなかった日に千鶴を守る為に外で睡眠を取った時だった為、このような甘い雰囲気ではなかった。それでも「愛おしい」と、絶対に死なせたくないと、千鶴を抱き寄せていた。
しかし、あの頃と今では違う。夫婦として漸く夜を共に出来たのだ。何度、触れたいと願ったか解らない。自分では千鶴を幸せには出来ないのではないか。羅刹となった斎藤は一体どれ程命を削ったのか、いつ灰になって消えてしまうか解らぬ身なのだ。そんな自分が妻を娶る等、千鶴を不幸にするだけだと思いながらもずるずると共に生活をしてきた。千鶴の為と願いながらも、千鶴を手放せない自分は何と欲深いのか。目の前で千鶴が自分以外の誰かの妻となる姿を見るのだけは嫌だと、訪れそうになっていた千鶴の縁談話を遮るように、千鶴の耳に入れる前に妻としてしまった。
後悔はない。
(俺は…果報者になっただけだ)
千鶴はどうなるのだろう。淋しい思いをさせてしまうのではないか。そう思いながらも、目の前の千鶴はとても幸せそうで、いずれ淋しい思いをさせるだろうけれど、自分の選択は間違っていなかったと思わずにはいられなかった。
漸く、触れることが出来た。上手く伝えられただろうかと、柔らかな頬を撫でる。想いはあの日、会津行を決めた日に伝えた。言葉では無く、視線と、唇で。
今宵はただただ千鶴を求めただけのような気がしていた。いや、ただ千鶴を求めてしまったのである。あの鉄の理性を持つと言われた斎藤一が、理性を飛ばしてまで。それほど欲しかったものだった。
どれ程こうしたかったか。
何度、少し離れた場所で眠る千鶴に手を伸ばしかけたか。千鶴が嫌がるとは思えなかった。だからこそ、手を出さなかったのだ。自分が千鶴に溺れ、千鶴を手放せなくなるのが目に見えていたからだ。
死なせたくない。
戦火の中、ずっとそう思ってきたが、斗南に来てからはただ、千鶴が幸せになる事だけを願ってきた。出来れば自分の手でそうしてやりたかったが、幾度も羅刹達が灰になるのを見てきた。それは突然訪れる。自分の寿命を使い果たしたのだ。予告も無く、突然灰になり、風に流されていく。一だけではなく、千鶴も幾度も見てきた。その度にいずれ訪れる一の姿が浮かぶのか、ほんの一瞬だが酷く哀しそうな眼になり、一気付かれないように冷静を装う。泣いてすがりたいに違いないのに、気丈に振る舞う。
(出逢った時から変わらぬ)
泣き言も言わずに、当初は怖かっただろう新選組の屯所に軟禁状態になっても、涙は見せなかった。明るく振る舞い、自分達新選組の役に立とうと血で染まっていく彼らの中で「帰る場所」を作り続けた。死番の日、もしかすると生きて帰って来れないかもしれない自分達に「行ってらっしゃい」と、帰ってくるのを待っていると、皆に声を掛けて。
そんな千鶴だから愛した。愛しいと、心から欲しいと願ったのだ。
ずっと、毎日喉から手が出る程に、焦がれた。
愛おしくて、愛おしくて。触れるのを躊躇う程に。
欲しくて、欲しくて溜まらなかった。
手に入るとは夢にも思わなかった千鶴が今、生まれたままの姿で自分の腕の中にいる。夢ですら触れられなかった千鶴の頬に、耳に指をやるとくすぐったそうな仕草をし、笑みを浮かべた。何度も口付けた唇に人差し指を当てると、吸い込まれるようについばむように自分の唇を重ねた。
「千鶴」
起こすつもりは無い。いや、きっと声を掛けただけでは起きはしないだろうという安心感から、思わず声にしていた。
「千鶴」
おまえがいるから、俺は生きていけるのだ。と、唇越しに呟く。おろした髪を梳いてやると、高く結い上げていた姿がよぎった。下手な男装だと思ったが、同時に真っ直ぐな娘だとも思っていた。
ただ、それだけだった筈が、気が付けば傍にいるのが当たり前になった。守るのが当たり前になっていた。土方の命だと思うようにしていたが、既に千鶴は一の心の中に入り込んでいたのだ。自分には使命があると、己の気持ちに気付かない振りをしていたが、日々、想いは深まっていった。千鶴に触れる度に理性を抑えるのが苦しくなっていく。だから…と言い訳をするつもりはないが、夢中になって触れてしまった事もあった。千鶴は血が足りないのか、と誤解をしたようだが。
(欲情、してしまっていたのだ)
あの時認めるのは躊躇われた。もしも認めてしまえば、箍が外れ、理性などどこかに吹き飛んでしまっていただろう。
いっその事、自分のものにしてしまえば…と思った事も正直ある。千鶴に触れる度に想いは増すばかりで、胸が焦げる想いを初めて知り、特に女に興味がないと思っていたが、単にそういう相手に巡り会っていなかっただけなのだ。興味がないとはいえ、女を抱いた事がないわけではないのだが、懸想する気持ちを当時は理解出来ずにいた。
こんな気持ちがあるなんて、想像すら出来なかった。決して穏やかではなかった一の人生に安らぎを教えてくれたのは千鶴である。
(俺にこのような感情があるとはな……)
驚き、戸惑いを感じつつも、喜びもあった。恋情にうつつを抜かしている場合ではなかったが、千鶴がいたからこそ、一は強くなれた。
守りたい。
強く、強く。もっと強くなりたいと願った。戦には負けたものの、一の志が折れたわけではない。刀が無くとも、武士でいる事は出来る。生き方を変えたわけでは無い。寧ろ信念を持って生きている。
(強くありたいと思っているが、おまえの方が俺よりも強いのかもしれぬな)
もう一度千鶴の頬を撫で、唇に指を当てる。
(守られているのは俺の方かもしれぬ)
漸く触れる事が出来た。腕の中の千鶴は柔らかく、そして、温かい。
あの日、袂を分かつ時に、一が一番守りたかったのは千鶴である。死なせたくない。ただそれだけだった。だから千鶴とも離れようと思ったのだ。自分では幸せには出来ない。志があったから。袂を分かったとしても、名を変えたとしても、一はいつまでも新選組三番組組長の斎藤一だ。だからこそ、千鶴は自分の傍にいてはいけない。だが、本心を言えばきっと千鶴は自分を責めるのではないか。羅刹の道を選んだ時のように。決して本心を知らせたくは無かったのに、思わず吐露してしまっていた。ただ、千鶴の幸せを願っていただけなのだ。出来る事ならば、自分が幸せにしてやりたかったが、志と使命を貫くには千鶴の幸せは願うしかなかった。なのに、千鶴は一と同じ志を持っているかのように、一の傍を離れたくないと真っ直ぐな眼で見つめた。一が惹かれたあの真っ直ぐな眼を向けられては千鶴に背を向けられなくなる。
元々千鶴は一のものではない。将来を誓う所か、自分の気持ちを打ち明けたりもしなかったし、千鶴からも想いを伝えられていたりもしなかった。だが、互いに惹かれ合っているのは気付いていたように、今となっては思うのだ。自惚れだろうかと、自分が惚れてしまったから、願望からそう見てしまっているのではないかと思ったが、やはり互いの想いは同じ所にあった。喜びと同時に、淋しさも感じた。自分では千鶴を幸せにしてやれないと思ったからだ。
なのに、今、一の腕の中には千鶴がいる。夫婦として、千鶴がそこにいる。
「俺は果報者だ」
声に出して言うと、千鶴の耳に届いたのか「はじめ…さん……」と、まだ呼び慣れない、呼ばれ慣れない一の名を練習したばかりの名が千鶴の唇からこぼれた。
「よく、聞こえなかったから、もう一度…頼む」
「はじ…さ……」
「千鶴、もう一度」
「ん……」
手に入れられないと諦めていた千鶴が傍にいる。長い間一緒にいたが、初めて見る千鶴の姿がそこにあった。想像でしか知らなかった柔らかさが今確かに、腕の中にあるのだ。
「名を…もう一度……」
一の声は届かなかったのか、うっすらと笑みを浮かべ一の胸にすり寄り、寝息がかかる。少しくすぐったいが、心地が良かった。
少し眠気があるが、千鶴の目が覚めるまでこうしていようと思った。勿論千鶴の目が覚めた後も眠るつもりはない。今日は非番で、一日千鶴の傍にいれる。きっと千鶴は早起きをして朝餉の支度をしようとするだろう。それを阻止して、ずっと試してみたいと思っていた甘い時間を太陽が真上に昇るまでするつもりだ。どれだけ千鶴が恥ずかしがっても、逃すつもりも、許すつもりも無い。ずっと、そうしたかったのだ。そう伝えたら千鶴はどういう反応をするだろうか。
ただ、恥ずかしがるだろうか。
それとも、呆れるだろうか。
どちらだとしても、止めて等やらない。焦がれていた千鶴を手に入れられたのだ。これは夢では無いと、確かめたい。
こんな自分がいたのか。
千鶴といると、知らない自分ばかりに遭遇をしていた。戸惑いもあったが、知らない自分を知るのも楽しかったし、千鶴もそうだと嬉しいと感じて欲しいと願った。
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