(斎藤×千鶴)

 いつから人を欺くのが平気になったのだろう。隊務とはいえ、心は痛まないのは自分に心がないからだろうか…とも、考えた事もあった。全ては新選組の為、近藤、土方の為。斎藤を救ってくれたあの仲間の為に、斎藤は時に仲間でさえ欺いてきた。
 罪悪感はなかった。
 いや、感じている暇がなかったというのが本当の所だろう。敵方に潜入する事もあり、感づかれては自分の命に関わってくる。自分だけで済むのならば諦めもつくが、斎藤の失敗は新選組の失敗にも繋がる。だからこそ、慎重に、そして確実に行動しなければならなかった。どこにでも馴染めるように、夜にも溶け込めるように黒を纏った。元々好んで黒を着ていたというのもあり、違和感もなく、斎藤はどこにでも溶け込んでいるように見えた。
 御陵衛士から帰ってきた時も、見事に「裏切り者」の汚名まで纏い、それでも平然と振る舞った。
「また新選組を裏切るのではないか」
「よく平然としていられるな」
 陰口は斎藤の所まで届いていたが、相手にはしなかった。
 恐ろしい男だと、三番組以外の隊士は声も掛けなくなっていったし、中には三番組の隊士達にも嫌がらせをする者も現れた。そして、三番組にも斎藤を信じられずに別の組へ移動させて欲しいと申し出る隊士もいた。全てではないが、それらを耳にした時、千鶴の胸は痛んだ。決して表情を崩さない斎藤に声を掛けられなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も斎藤が必要としていないのだと、千鶴は知っていたから。それでも、斎藤が心を吐露しない分、千鶴には見えない叫びが聞こえるようだった。勝手な思い込みかもしれないが、何も言わないからこそ、想像するしかなかったのかもしれない。
(斎藤さんは優しい人だから)
 斎藤は決して冷血な人間ではない。日に日に幕府側が不利になって行く中、感情を表に出していては前を向けないからだ。ならば、千鶴が出来るのはほんの少しでも、一瞬でも構わないから寛げる場所を休める場所を作るしかなかった。

 変若水を飲むのに躊躇いはなかった。例え血に狂ったとしても、何もしないで、一方的にやられたままで、どの面下げて「新選組三番組組長」だと言えるのか。何の為に、部下でさえ欺いてきたというのか。千鶴の止める声も耳に入ったし、代償もずっと目にしてきた。その行く末も、かつて自分が始末してきた隊士達の姿を忘れたわけではない。それでも、躊躇いはなかった。目の前の男に勝てるのならば、何だってする。この意思に嘘も偽りもない。先に待っている自分の血に染まった未来ですらどうだっていい。
 いつだって命を惜しいと思わなかった。ただ、自分の生きる道を見つけ、全うしただけだ。
(俺は今まで沢山の人を斬って来た。だから、いずれ誰かに斬られるだろう)
 巡り巡って、自分に返ってくる。
 諦めているわけではないが、覚悟をしていた。それが武士というものだと、信じていた。目的の為ならば何でもする。土方を見て、傍にいて学んだ事でもある。ズルい手も使っていたし、悪いとは思わなかった。武士になる為に、自分達の正義の為に正当な手だけではのし上がれないのは浪士時代に嫌という程味あわされたからである。
 千鶴があの頃の新選組…いや、壬生浪士組を知ったらどう感じただろう。
(あの時の綱道さんを…千鶴には見せたくない)
 綱道の居場所を調べるべく、幾度となく千鶴に綱道の人となりを聞いてきた。だが、千鶴から聞く綱道は自分達が知っている綱道とはまるで別物だった。斎藤達が見た綱道が本性に近いものだったと今ならば確信出来るし、千鶴も知っている事ではあるが、それでも見せたくはない。新見と共に変若水の研究をする綱道はもはや人の心を失った者にしか見えなかった。
(俺達も荷担していたのだから、同じようなもの…か)
 決して本意ではなかった。それでも、本気で止めなかったのだから荷担していたのと同じだ。協力的でなかったというだけで黙認していたのだから。
 もしも立場を考えずに人としてそのような事は出来ないと突っぱねていたのならば、千鶴が危険な目に遭わなかっただろう。新選組と…斎藤と出会う事もなかったかもしれない。あの真っ直ぐな眼は他の誰かを見て、幸せな日々を送っていたかもしれない。
「………」
 幸せな暮らしをして欲しい。
 千鶴を知れば知る程、斎藤は千鶴はここにいてはいけないと強く思うのに、その反面、寂しさを感じずにはいられなかった。
 ずっと、自分を騙して、敵を欺いて、時に仲間を欺いて、嘘で塗り固めた日を送ったというのに、今は自分にすら嘘をつけられないでいる。千鶴の為には自分達と出会ってはいけなかった、出会わなければ良かった筈なのだ。斎藤だけでなく、千鶴を知る幹部達皆、そう思っているに違いない。あの沖田ですら、千鶴に心を預けていたのだから。なのに、千鶴と出会っていなければと考えると寂しさを感じてしまう自分に驚いていた。自分の感情等、心の奥にしまい込んだ筈なのに。何故今、自分の心を隠せないのだろう。ずっと欺いてきたのに、今ここで騙せなくてどうする。斎藤の為に…と、自分が狙われているのを忘れて力になろうとする千鶴を守るのも隊務のひとつだと言い聞かせながらも、どんな時も「人の為」にと動く姿勢が斎藤には眩しかった。自分は千鶴のように動けるだろうか。勿論「隊務の為」「新選組の為」と働いてきてはいるが、誰にも嘘偽りなく前を向く千鶴が羨ましかったのかもしれない。
(いや、羨ましいのではない。ただ……)
 千鶴を手放したくないだけだ。
 今更自分の気持ちに正直になった所で、本能のままに生きる道は斎藤の中にはなかった。ならば土方に任せて、自分の任務を遂行するだけだ。永倉と原田は新選組を離れ、近藤も敵に捕まり、斎藤が信じた運命はひとつの終わりを告げようとしているかのようだった。それでも、土方ならば千鶴を綱道、そして風間から千鶴を守ってくれるだろう。斎藤が選ぼうとしている道に千鶴の安全は殆どない。千鶴だけでなく、斎藤の安全すらないに等しいのだ。それでも、死に場所は自分で決めたいと思っていた。
 武士として生き、武士として死にたいと。
 嘘偽りのない、本心だ。
 千鶴を死なせたくないのも、斎藤の心からの本心だった。
 傍に居たい。
 芽生えた感情を制御するのは難しいが、この時だけは今までの感情を閉じ込めてきた経験に初めて感謝したのだ。どこか後ろめたい気持ちがあったのだと、初めて気付いた。
「すまねぇな、斎藤」
 ふいに土方がよく口にしていた言葉がよぎった。
(自分ですら気付かなかった気持ちに、副長は――)
 気付いて、間者の仕事を任される度に、後ろ暗い思いのするだろう任務の時に労ってくれていたのだ。おそらく…山崎や島田にも。
 だから、信頼出来た。だからこそ、千鶴を預けられると、考えたのだ。
(預けられる、か。まるで俺のものだと言わんばかりの言葉だ。元々千鶴を救ったのは俺ではなく、副長だというのにおかしな話だ)
 自嘲するように笑みを浮かべると、自分が信じた人の器の大きさ、優しさを改めて感じ「土方さんならば千鶴が本来居るべき穏やかな場所へと導いてくれる」と、漸く袂を分かつ決心がついた。きっと土方も会津に残りたいと考えているに違いないが、新選組を信じ、土方を信じついてくる隊士達を考え仙台に向かうと決めた土方の心残りを斎藤が取り除くという最期の任務を果たそうと決めた。

「――さん、はじめさん…?」
「あ、あぁ」
「夕餉が出来ましたよ」
「あぁ、すまない」
「? どうかされましたか?」
「いや、何でもない」
 昔に思いを馳せていた。ただそれだけの事だったが、死に場所を決めたあの日を思い出させたくはなかった。互いの想いが通じ合った日でもあるが、死に場所を決めた日でもあり、少し哀しそうな顔をさせてしまうと、話さないようにしていた。
(考え過ぎだと言われるだろうが、それでも千鶴には笑っていて欲しい)
「何でも無い顔じゃなかったですよ?」
「明日、少し面倒な仕事になりそうでな。少々憂鬱になっていただけだ」
「嘘」
 昔、皆を騙していた時と同じ表情を作った筈だった。誰もが気付かなかったあの表情を。
「嘘ではない」
「はじめさんはすぐに顔に出るから、解りますよ。何か心配事ですか? 私が聞くと良くない話ですか?」
「何故……」
 初めて言われた言葉だった。勿論、試衛館の仲間達との隊務以外の日常でのやりとりでは「解りやすい」と言われたりはした。だが、隊務の時は誰にも気付かれたりはしなかったし、今その顔をしていた筈だというのに……
(もうあのような仕事をしなくなったから、緊張感がなくなってしまったのだろうか)
「何故って…私でなくても、皆さん解ると思いますよ」
 皆さん。全ての人ではなく、斎藤が信頼していた彼らを指している。
「しかし……」
「全てではなくても、何かがおかしい。いつもと違うと、皆さんは気付いてらっしゃったと思いますよ」
 夫の「何故」の意味を理解して、懐かしそうに微笑んだ。
「気付いた上で、何も仰らなかったのだと思います。皆さん、はじめさんを信頼してましたから」
 そう、だろうか。いや、そうなのだろう。
「だが、皆、おまえには適わぬだろうな」
「どうしてですか?」
 どれだけ完璧を装ったとしても、きっと千鶴は一瞬で「嘘」を見抜くだろう。
 いつもまっすぐ前を見ていた偽りのない眼と、その深い愛情で。
「何でもない」
 少し頬を膨らませ、不服を言いたげな視線を投げかける千鶴に
「本当に何でもないのだ。ただ、昔を思い出していただけだ。面白い事ではない故、千鶴に心配を掛けたくなかった、それだけの事だ」
 両手で千鶴の頬を包み、真っ直ぐな視線を返すと安心したように微笑み
「はじめさんは心配性過ぎるんです。私は頼りないかもしれませんが、はじめさんの心の負担を少しは私に分けて下さいね」
 本当に、適わぬ。
 だからこそ、惹かれたのだ。連れて行こうと、連れて行きたいと、幸せな未来を夢見たのだとどれだけ千鶴を必要としていたのか今になって漸く気付いたのだった。


 嘘をテーマに何か話を書きたいと思っていました。更新日がエイプリルフールなので、丁度いいな、と。
 でも、話の内容はエイプリルフールとは全く違う物にしました。単に、嘘をテーマにしたちょっとシリアスな話にしたくて。
 皆は漠然と斎藤さんの嘘に気付いていたんじゃないか…なんて思うんですよね。それが何を意味するのかとか、詳細までは解らなくても「何かが違う」と、感じていたんじゃないかと思います。それを言わないのは斎藤さんを信じているから。