彼女を守るもの
(斎藤×千鶴)
実は誰も気付いていない事だった。いや、そもそも考えもしなかったのは―――
制限はあるものの、千鶴は少しずつ行動範囲を広めていた。それはただ「お世話になっているだけでは嫌だ。自分も皆の為に何かしたい」という気持ちから。幹部達…いや、主に土方だがじっと部屋にいれくれれば良いのに…と、勝手場等を中心にまるで昔からそこにいるのが当たり前だったように、千鶴が仕事をする姿が馴染んでいくのを複雑な気持ちで見ていた。かいがいしく家事をこなしていく様を見ていると「誰かの嫁になっていてもおかしくない」と感じずにはいられなくなり、幹部達…いや、主に近藤や土方は胸を痛める事になっていた。
(何とかしてやりてぇが……)
肝心の綱道の居場所がつかめないままではどうしようもない。
「副長、何か問題でも?」
巡察の報告をしていた斎藤が、自分の報告に何か引っかかった場所でもあるのだろうかと、問いかけた。
「あっ、あぁ――いや、何でもねぇ」
「しかし……」
「おまえの報告に何の問題もねぇ」
では、一体何に引っかかっているというのかと言わんばかりの視線を送る斎藤に
「あいつがここに来て…いや、俺達が連れて来て、か。どれ位経つ?」
「半年程かと」
そうだな、と土方はどれ程経っているのか知っていて斎藤に質問を投げかけていた。
「元より、綱道さんの事は俺達新選組が探すつもりではいるが、あいつを見てると不憫でな」
ここに沖田がいれば「自分で連れてきたんじゃない」と言われてしまうだろうが、幸い朝餉を済ませた後から姿が見えない。どこかでフラフラしているのだろう。
「そう、ですね」
さほど気にしているような素振りは見せていないが、斎藤もまた千鶴を不憫に思っていた。大人しく江戸にいれば良いものを…と思わなくも無いが、父と娘、たったふたりきりの家族となれば、心配だけではなく、不安もあったに違いない。しかし、治安の悪い京へ本人は完璧のつもりなのだろうが、下手な男装をしてまでたったひとりでやってきたのだ。仮にも京の治安を守るべく存在している新選組が、京の住人ではなくても、京にいる民全ての安全を確保しなければいけないと、特に斎藤は尽力を注いでいた。泣いている姿を見せる事なく、本当に殺そうとまでは考えていないが、可能性は無いわけではない。京の民には評判の悪い「人斬り集団」と呼ばれるここに軟禁状態にされ、不安を抱えているに違いないのに新選組の幹部達の前では、気丈な姿を見せる。敵になってしまうかもしれない相手の世話まで買って出る。情というものを持ってはいけないと思いつつも、斎藤も千鶴に対して情は生まれていた。強いとさえ、思うように。
「まぁ、とにかく、あれだ。細かな情報でも構わねぇ。拾い落としをするなよ」
「承知」
戸を開けて外に出ようとすると、柔らかい何かとぶつかった。
「きゃっ…!!」
ぶつかったのは先程の土方との会話の中心、千鶴だった。
「なっ…!」
土方に茶を淹れて来たのだろう。傾いた盆から湯飲みが落ちそうになるのを素早く受け止める。
「す、すみません!」
「い、いや……」
盆には湯飲みがふたつ乗っていた。ひとつは土方、もうひとつは斎藤のものだろう。再び土方の部屋に戻り、茶を飲むわけにもいかないが、折角淹れた茶を無駄にはしたくない。
「いただこう」
ひょい、と湯飲みを取り上げ踵を返し、斎藤は自室へと向かい、千鶴はもうひとつの茶が冷めない内に、眉間に皺を寄せて書類とにらめっこしているだろう土方の元へと運んだ。
千鶴が淹れた茶がすっかり冷めてしまったのに、一口も口にせず、湯飲みを焦点の合わない眼でぼんやりと眺めていた。
(先程のあれは…もしや…い、いや! まさか、そのような迂闊な事等……)
もしや、いや、まさか、いや、もしや、まさか、いや…斎藤の頭の中はこの言葉で埋め尽くされていた。
埋め尽くされていたのだが、賑やかな声が耳に入った。声の主は沖田と、千鶴である。賑やかだが、遊んでいる、楽しそうな声ではなかった。沖田の方は楽しそうにも聞こえたが。
また何か悪戯でもして千鶴を困らせているに違いない。小さく溜め息をついて、土方の逆鱗に触れる前に納めなければならないと、自室を出ると案の定、沖田を追いかける千鶴の姿が眼に入る。
「総司、何をしている」
「酷いな、一君。第一声がそれなの?」
千鶴から逃れるべく走っていたのだが、あっさりと立ち止まり、爽やかな笑顔を浮かべる。本気で走っていなかったのは息が上がっていないのが証拠ではあったが、それがなくとも、沖田が本気で走っていないと解っていた。追いかけていた千鶴も、おそらく気付いていただろうが、急に立ち止まれなかったのか、沖田にぶつかりそうになった所を斎藤がふたりの間に割って入り、優しく千鶴の肩を抱き留め、ぶつかるのを阻止した。
「そんなに慌てて来なくても、僕は千鶴ちゃんを転ばすような事も、はねのけるような事もしないよ」
「普段あれほど雪村に斬ると言っておいてか」
言いながらも、沖田が非情である部分を知っていても、千鶴にそれを向けるとは思っていなかった。今は単に千鶴をからかって遊んでいただけなのも見ていれば解る。勿論、そこに近藤が不利なる条件が絡んだら容赦なく切り捨てるだろうが。
(まぁ、転ぶ姿を見て笑わないとも限らぬが)
だが、斎藤は千鶴が沖田にぶつかるのを避けたかったのだ。今までこうした追いかけっこがあった為、今更な話かもしれないが、それでも気付いてしまったからには阻止せずにはいられなかったからである。
そして、確かめなければならない。
斎藤の気付いた通りなのだとしたら、注意しなければならないし、今のままでは千鶴の身に危険な事が起きるかもしれないと伝えなければならない。
(しかし、何と言えば良いのだ)
土方に相談でもしようか。
(いや、副長は多忙故、このような事…これも重大な事ではあるが、俺が対応出来る仕事まで押しつけてはならん)
ならば、どうすれば。
まずはここから千鶴を別の場所に連れて行った方がいい。沖田の前で話す内容ではないからだ。しかし、こういう時の沖田の勘は鋭い。面白いと感じると、例え誰であろうとも沖田を振り払うのは難しい。
(冷静に。冷静に何でもないように千鶴に頼み事をすればいいだけの話だ)
今まで隊務の為に、どれ程の嘘をついてきたか解らない。人を欺く仕事もしてきたし、これからもしていくだろう。朝飯前の筈なのに、何故今その方便が出てこないのか。気を抜くと脂汗がにじみ出てきそうだった。だが、悟られてはいけない。
(全く、何故総司はいつも間の悪い時に狙ったかのようにそこにいるのか)
今日はこのまま何も話さずに、次の機会にでも話せばいい。
(しかし、その間にこの事実に気付く者が増えたらどうするのだ)
百歩譲ったとしても、幹部達に知れるのでさえ問題である。
もしも近藤や土方、山南、そして原田が気付いたのならば事が大きくならずに速やかに処理するだろう。しかし、彼らが気付き注意をしたとしても、千鶴は絶対に恥ずかしい思いをするだろう。今まだ彼らが気付いていないのならば、そのままの方が良い。
もしも、藤堂が気付いたのならば…絶対に事が大きくなるし、動揺で何をしでかすか予想もつかない。上記の面子に知られた時よりも千鶴が恥ずかしい思いをしてしまうに違いない。
もしも、沖田が気付いたら――既に気付いているかもしれない。虫の居所の悪い時に、考えたくもない恐ろしい悪戯をしてしまう可能性がある。
(総司が女子に直接何かをするとは思えぬが、土方さんに対する悪戯の道具にしかねぬ)
藤堂以上に危険人物なのは明らかだ。
もしも、その他の千鶴が女だと知らされていない幹部達に知られるわけにも、他の隊士達に気付かれるわけにもいかない。今すぐに対処するのが一番なのだ。
「雪村、手伝って欲しい事が…あるのだが……」
「あ、はい!」
「何、千鶴ちゃんじゃないと駄目なの? 彼女は隊士じゃないんだからこきつかっちゃ駄目なんじゃないかな。僕、今日は巡察ないし、手伝ってあげるよ?」
どうして手伝って欲しい時にいなかったり、逃げたりするのに、こういう時だけ率先して参加しようとするのか。
「いや、総司は……」
手伝わなくていい。寧ろ消えてくれ。
等と言える筈もない。
「まさか手伝って欲しいというのは口実で、千鶴ちゃんと一緒にいたいだけだったりして。一君って結構むっつりだよね」
「なっ…!」
確かに今は少し邪な気持ちがあったかもしれないが、斎藤のせいではない。全ては千鶴の為なのだ。
「さらし、巻いてないの気付いたんでしょ?」
斎藤に近付き、小声で呟くように言うと、ニヤリと笑って「やっぱり僕、用事思い出したから」と、その場から離れた。
「斎藤さん、手伝って欲しい事って何ですか?」
眼を輝かせて「自分の出来る事」があると嬉しそうに笑みを浮かべる千鶴に、ぶつかった時の柔らかい感触…いや、さらしを巻いていないのが接触した時に他の者に知れてしまうのは男の中で男装して暮らす千鶴にはとてつもなく危険な事なのだと説得するにはどの言葉から始めれば良いのか、いい言葉が浮かばなかった。
「―――ひとつ聞きたい事がある」
「はい、何でしょう」
「あんたはその格好で江戸から出てきたのか?」
「はい、この格好です」
「寸分違わず、その格好で、か?」
「はい」
斎藤の手伝って欲しい事と、千鶴の男装とどういう繋がりがあるのか検討もつかず、小首をかしげた。
(今まで誰にもぶつからなかったのか。それとも、気付いたのが心根の優しい男だったのかもしれぬ。いや、女かもしれぬな。いや、そもそも心音が優しいのならば、江戸に戻すのが筋だろう。女子がひとりで江戸から京に出る等無謀すぎる。男装をしているのに気付いたのならば、何故注意しなかったのだ!)
そもそも千鶴が誰かにぶつかったり、斎藤のように見てすぐに女だと解った者がいたとして、厄介事を抱えているのは言葉にしなくても解る状態で首を突っ込んでくる者も少ないだろうし、本当に千鶴が女だと気付いた者がいたとしても、彼らの責任ではないと解りつつも、誰かのせいにせずにはいられなかった。
ぐいっと、千鶴の手首を掴み「来い」と、千鶴の部屋へと向かい千鶴を座らせて「少し待っていろ」と、部屋を出て、自分の部屋に入り、しまってあった寝間着に使っていた帯を取り出し、再び千鶴の部屋へと向かった。
「これを」
「? 特に破れたりはしてないみたいですけど……」
受け取り、広げて一通り見た千鶴は斎藤が用意した帯の意味する所が当たり前の話だが、伝わっていなかった。
「別に繕って欲しいのではない。とりあえず今日はこれを使え」
「帯を…ですか?」
「あぁ。不具合はあるだろうが、ないよりはいい」
「…あの、意味が……」
「さらしの代わりだ」
一瞬、千鶴は何を言われたのか理解出来なかったようだが、みるみる内に頬が真っ赤になっていった。
「その…ぶつかった時に気付いた。も、勿論わざとではない…が、気付いたからには対処せねばならぬ。あんたは男ばかりの場所で女と知られないように男装して暮らしているのだから、日々警戒してなければならないのに、さらしすら巻いていないとはどういう事だ」
一度言葉にしてしまえば、後は気付いてから頭によぎった「どれだけ危険な状態でいるのか」と説教を始めた。
「別にさらしなんてなくても、平らな胸なんだから大丈夫なんじゃない?」
説教中にいつの間にか現れた沖田の言葉で千鶴は言葉を失い、斎藤は凍り付いたように固まった。
(千鶴は決して平らな胸ではない!)
思わず叫びそうになった言葉を飲み込んだ斎藤は暫く千鶴の顔をまともに見る事が出来なくなり、沖田には「むっつり」と呼ばれ、珍しく反論出来ずにいる斎藤は沖田にからかわれる元を知られたが、さらしを巻き、漸く危機感を持った千鶴を見て安堵の息を吐いた。
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