優しさの温度
記憶の行方 その弐
(斎藤×千鶴)
酒に酔い、千鶴を自分の布団の中に入れてしまった事件以来、斎藤は深酒を避けるようになっていたし、千鶴も斎藤を避けるようになっていた。
一体あの晩、何が起きたのか、斎藤は未だに知らないままで、傷つけるような事はしていないのは千鶴の素振りで解るのだが、では、何故自分は千鶴を自分が入っている布団の中に招き入れたのか、どう言ってあのようになったのか、千鶴は酒が呑めないから素面だったというのに、それを説き伏せられる言葉を自分が持っている、言えるとは夢にも思えず、真相を知りたいと詰め寄ったりはしないが、それとなく聞きたいと千鶴の姿が視界に入れば追いかけるのだが、千鶴は頬を染めて斎藤から逃げる。それは季節が変わって、当時程の反応ではないものの、相変わらず千鶴は斎藤を見ると頬を染めて、あの時の話題は避けていた。斎藤がどれ程謝っても、だ。ただ、真実を知りたい。同じ間違いを繰り返したくは無い為だと言っても「斎藤さんは悪くありません」としか言わなかったのである。
千鶴は千鶴で、頭を抱えていた。斎藤は酒に酔っていたから仕方が無い…というのも違うのかもしれないが、千鶴は素面だったというのに、夫でも無い…男の布団の中に入るというふしだらな事をしてしまい、一歩間違えれば斎藤に迷惑をかけてしまう行為をしてしまったのだ。父が懐かしかった、子供の頃を思い出したからというのは言い訳にもならない。斎藤は何故、どういう経緯であのようになったのか知りたがっていたし、悔いているようにも見えた。だが、もし「何故、あんたは逃げなかったのだ」と言われてしまっては「すみません」としか答えられなかったからだ。恥ずかしい気持ちもあるし、顔を合わせられないというのもあり、斎藤が悪いわけではないのに、周りに誤解されてしまうような態度を取ってしまっていると自分でも気付いていたが、やはり恥ずかしい感情が千鶴の心を占めていた。
「なー、総司。一君と千鶴のあれ、いつまで続くのかな」
飽きる事もなく続いている、斎藤と千鶴の攻防を幹部達はあたたかい…とはとても言えないが、それに近い眼差しで見つめていた。
「さぁね。気になるんだったら、聞いてみればいいじゃない」
興味なさ気に答えるが、沖田は面白そうにふたりを見つめていた。まるで面白い遊びを見つけたかのように。
「だから! 聞いてもふたりとも答えてくれないんだって、前にも言っただろ」
「そうだっけ?」
ニヤリ、といつもの笑みを浮かべる沖田に何を言っても期待する答えが返ってこないのを知っていて、つい尋ねてしまうのだ。沖田ならばきっと何かを知って、悟っているだろうと気付いているから。当然、はぐらかされてまともに返答される事等ある筈もないのだが。
真実はただ、斎藤が酔い、離ればなれになってしまった唯一の父を探し江戸から出てきた千鶴を不憫に思い、少し違った方向ではあるが、きっと淋しい思いをしているだろう千鶴に少しでも父性愛を与えてやりたいと、すっかり寒くなってしまった夜、寒さで風邪を引いてはいけないと自分の布団の中に招き、抱き締めて眠っただけである。そこに邪な気持ちはどこにもない。千鶴はそんな斎藤の優しさが嬉しかったが、素直に「嬉しい」と認めるわけにも、斎藤にあたたかい気持ちに対しての礼を言える事も出来ず、血の気の引いた顔で追いかけてくる斎藤から頬を赤く染めて逃げるしかなかった。
ふたりの攻防は季節が変わって漸く終焉を迎える事となる。結局、千鶴から何があったのか聞けずにもやもやとした気持ちが残ったままではあるが、相変わらず千鶴はあたたかい笑みを浮かべ、窮屈な暮らしではあるが、その中から自分の居場所、やるべき事を見つけて前を向いていた。その姿に好意を持ち始めている自分に戸惑いながらも、色んな形があるにせよ、幹部達は皆、好意を表に出すようになっていた。いつか別の道を歩くだろう千鶴だが、まるで昔からいた仲間のように溶け込んでいた。
以前から深酒をした翌日は前日の記憶が曖昧になる事があったが、誰かに指摘された事は一度もなかった。酔って記憶がなくなったとしても、普段からの姿勢が大きく変わる事のない斎藤を弄ったとしても面白くないというのもあったからなのだが、それは本人の知る所ではない。普段と変わらない…というよりも、普段以上に堅く、融通が利かなくなるから面倒だと、壁に向かって何かを語っている斎藤は一緒に呑んでいる者達にとって、景色でしかないというのも事実である。
あの日以来、自粛していた為、記憶がなくなる程呑まなくなり、意識していたというのもあり、少し多めに呑んだ日も記憶はしっかり残っており、安心して朝を迎えていた。その間、千鶴を交えての席もあったが、敢えて千鶴の傍に座りはしなかったが、いつもの面子だとどうしても永倉、原田、藤堂は羽目を外し着物を脱いで、騒ぎ初めて千鶴は彼らをまともに見る事が出来なくなるし、沖田が共にいる場合は普段と変わらず辛辣な言葉を言われたり、そこに近藤が加わると沖田には相手にもされない状態になるし寧ろ邪魔になり、土方がいれば酒を呑まないもののそこに芸妓がいれば必ず囲まれていたので、彼らの傍に千鶴の居場所は途端になくなってしまうのだ。離れた場所に座っていても最終的には斎藤の隣が千鶴の定位置となる。
「つまらぬだろう」
「いいえ。斎藤さんのお話はとても勉強になりますし、楽しいです」
世辞ではない、心からの言葉である。女でなくても、男相手でも刀の話をしかも酔った斎藤の刀についての話を聞く者は殆どいない。ましてや相手が女とあれば皆無だったのだが、千鶴は楽しそうに聞いていた。今まで、刀について質問される事はあった。趣味の話としてではなく、実用の面で。だから、深く話が出来る場所は少なかった。いや、無いに等しかったのだ。楽しそうに話を聞く千鶴を前に、つい、うっかり…というわけではないが、自粛していた筈の酒が進んでいた。酔っても今までのように話し相手がいる為、前回同様壁に話し続ける状態にはならなかった。千鶴も深酒をする斎藤をあまり見た事がなく、壁に話しかける斎藤を目にしていなかったので、よくよく見ればいつもと少し違った斎藤に気付いただろうけれど、わずかな違いに気付く事なく楽しい時間を過ごしていた。
(そういえば、前もこんな風にお酒の席で斎藤さんとふたりで話してたけど、あの後……)
ちらりと斎藤に視線をやると、心なしか口の端が上がっているような気がして、その笑顔は「もしかして……」と、思わずにはいられなかったが、口には出来なかった。
千鶴にとって、いや、斎藤にとっても幸いしたのはこの日は皆と一緒に帰った事だろうか。だから安心していたのだ。深酒をしたように見えたが、斎藤にとって取るに足らない量だったと、帰り道で酔っぱらい機嫌のよさそうに騒ぐ原田達を穏やかな気持ちで斎藤と並び、彼らの背を見ながら帰った。
「うん、きっとあの日が特別だったのかも。私も…まだ、あの頃は不安な気持ちが顔に出ていて、斎藤さんが私の気持ちをくんでくれていたのかもしれない」
部屋に戻り、寝間着に着替え、少しだけ開けた戸の隙間から、月を見上げた。
「優しい人……」
父の代わりにと、本来ならば兄妹の年の差だというのに、斎藤は父親役を買って出てくれたのだ。きっと淋しい思いをしているに違いないと、ずっと思っていてくれたのだろうと思うと、言葉にしない斎藤の優しさを改めて感じていた。あの夜もそれを感じたから「はしたない」と、頭で理解していたにも関わらず、父代わりであろうとした斎藤の腕の中で眠れたに違いない。
羞恥心も薄れ、漸く斎藤と顔を合わせて話が出来るようになった喜びをかみしめながら眠りについた。
「少し呑み過ぎてしまったか」
井戸で顔を洗い、手ぬぐいで顔を拭きながら斎藤は独りごちた。千鶴はもう眠っただろうかと、部屋に視線をやると少し戸が開いていた。袴姿でさえ千鶴は女にしか見えないのに高く結い上げた髪をほどき、寝間着を着た千鶴は誰の目から見ても、女としか映らないだろう。
「あれ程気を付けろと忠告をしたというのに、雪村には男の中に女子がひとりでいる危機を未だ感じていないというのか」
早足で部屋へと向かうと、藤堂程ではないが、掛け布団がはだけ、あどけない顔で眠る千鶴が目に入る。
「風邪を引くではないか」
部屋に入り、きっちりと戸を閉めて、掛け布団を直すと、くしゅん、と小さく千鶴がくしゃみをした。
「さっ、斎藤…さん……?」
目が覚めるといつもと違う視界に戸惑い、このぬくもりは何だろうと起きようとすると、身体の自由がきかなくて、顔だけでもどうにか動かすと、目の前にはすやすやと眠る斎藤の顔があった。
「どうして…?」
一体何が起こったのか全く解らなかった。夕べは確かに一緒に酒の席にいたし、斎藤も沢山酒を呑んでいたが、屯所についてから「おやすみなさい」と、皆それぞれ自室に戻った筈だった。布団に入った時も部屋には千鶴しかいなかった、なのに何故今この状況になっているのか、どれだけ考えても答えが見つからなかった。
しかし、この状況を他の誰かに見られては斎藤が咎められる事になる。何もなくとも、幹部以外千鶴を男だと思っていても、幹部の一部は千鶴が女だと知っている為、斎藤が千鶴の部屋に夜這いに行ったと、皆それを信じないと思うが、そのように取れる行動を起こした斎藤が咎められるに違いないと、どうしようもなく鼓動が高鳴り、恥ずかしい気持ちもあったけれど、それ以上に斎藤を起こさなければいけないという使命感が先立った。
「斎藤さん、斎藤さん…!」
大声では隣の部屋は用心の為に誰も使ってはいなかったが、それでも誰かに聞かれてはいけないと、小声で呼びかけ、身体を揺らした。
「こっ、これは…? 何故……」
飛び上がって起きた斎藤もまた何故この状況にいるのか解っていないようで、眼を見開いて千鶴を見つめていたが「斎藤さん、早く自室に戻って下さい」という千鶴の言葉に我に返り「すまぬ」とだけ残し部屋を出た。
「!!」
声にこそ出さなかったが、部屋を出るともう見張りはつけていないのに、まるで見張りをつけていた頃のようにそこに沖田が座り、斎藤を見上げていた。
「………」
言い訳も出来ずに、千鶴に聞こえる為声も上げられず、睨む事も出来ずにただ沖田を見つめていると、すっと立ち上がり何も言わずにその場を沖田は去った。
今度は何を押しつけられるだろうと考えなくもなかったが、何故別々の部屋へと向かった筈なのに、自分はどうして千鶴の部屋で、千鶴を抱き締めて眠っていたのか。千鶴も驚いているようだったから、千鶴もひとりで部屋に入り、ひとりで眠りについたに違いない。
どれだけ思い出そうとしても、自室についてからの記憶が全くなかった。
(まさか、千鶴の部屋に夜這いに…?)
いや、そのような事はある筈も無い。今までどれだけ酔っても、女の元へと行った事はないし、おそらくこれからもないだろう。生まれてから一度も女に気を許したり、安らぎを求めたりしなかったからだ。
「なー、総司。なんでまたあんな事になってんの?」
「さぁ、僕は何も知らないよ」
「昨日、一緒に酒呑んだ後帰った時はいつもと変わらなかったんだけどな」
「別々に帰ったわけじゃないんだ」
「一君が千鶴を怒らせたという素振りもなかったんだけど……」
「千鶴ちゃんが怒ってるようには見えないけど?」
「見えねぇけど、一君は謝ってるみてぇだし」
「気になるんだったら、一君か千鶴ちゃんに聞いてみればいいじゃない」
「だから、聞いてもふたりとも答えてくれないんだってば」
「じゃあ、諦めるしかないね」
僕、昼から巡察だから、と隊服を着ていたものの、一行に巡察に出ようとせずに楽しそうに追いかけっこをするふたりを眺めていた。
今度は斎藤だけでなく、千鶴は眠っていた為何が起こったのか知る所ではなく、ならばただ謝るしかないと、斎藤は千鶴を追いかけた。
酔うと斎藤は父性愛が溢れてしまうのではないかと感じた千鶴は斎藤の優しさを嬉しいと感じながらも、毎回その愛情をこのような形で向けられてしまっては心臓に悪いし、もしも誰かに見られでもしたら最悪の場合士道失格として切腹をしなければならなくなってしまう。だが、どうすればこの父性愛に目覚めた斎藤を止められるのか考えなければいけないと思いつつも、今はただ恥ずかしさで斎藤の顔をまともに見れずに、逃げるしかなかった。
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