縁を結いて
(斎藤×千鶴)
斗南で暮らすようになり覚悟をしていたからなのか、それとも別の理由があるからなのか、考えていたよりは落ち着いた暮らしを送っていた。
「待たずともよい」
謹慎が決まった時に斎藤は千鶴にそう告げたが、斎藤の本心ではない。いや、本心の一部ではあるが、奥にある欲望はそれを望んではいなかった。ただ、千鶴の幸せを願う為。「待っていろ」と言うのは簡単だ。約束をすれば、これからの辛く厳しい生活の唯一の励みになるだろう。しかし、いつ出られるのか。もしかすると生きては戻れないのではないかという不安があったのだ。ひとりで江戸から京に来てからというもの、千鶴には危険ばかりが付きまとっていた。解放してやるならば今しかない。自分の想い等、二の次で構わない。抱き締めたい衝動にかられたが、鉄の理性でもって冷淡に別れの言葉を述べた。「待っています」と、叫ぶ千鶴の声に応えてやりたい気持ちを抑え、忘れて欲しくない、いや、忘れて幸せになれと、心の中で語りかけながら。
だが、千鶴は斎藤を忘れるどころか、斎藤を救うべく、変若水に侵された血を薄める薬をひとりで作っていた。また自分の血を使って。
謹慎生活から解放され、千鶴はどうしているのか、もしかすると誰かと婚姻を結んでいるかもしれないと思いつつも、悟られぬように千鶴を見届けてから斗南に行こうと思っていたのだが、目の前には千鶴が立っていた。あの時の言葉の通り、千鶴はずっと斎藤を待っていたのだ。しかも、天霧が斎藤に運んでいたのは千鶴が斎藤の為に作った薬だったという事実まで知り、謹慎から解き放たれたが、これからまた貧しい土地で安定という言葉から遠い生活を送らなければならない故、千鶴を突き放そうと考えていたというのに、その理性は綺麗に吹き飛んでしまっていた。
離したくない。
この娘は俺のものだ。
浅ましい想いだったが、もう自分の心に偽りを通せる程の理性は残っていなかったのである。
「おまえも…来るか」
きっと千鶴ならば頷くだろう。これは自惚れではない筈だ。万が一動揺する素振りを見せても、力づくで連れて行こうとまで考えていた。
「はい!」
力強く答える千鶴を己の腕の中に閉じ込めてしまいたくなった。
愛しくて、愛しくてたまらない唯一の存在だ。出来れば夫婦になり、それまで千鶴に許されなかった「当たり前の幸せ」を与えてやりたい気持ちが芽生えていた。千鶴の薬と、この地の水のおかげで、少しずつ変若水の毒は中和され、供血の発作はなくなっていた。それでも、変若水の力を使っていた事実までは消す事は出来ない。確実に斎藤の命は削られており、長生きの保証がない自分と婚姻を結んだ所で「当たり前の幸せ」ではなく、ただ千鶴を哀しみしか待っていないのではないかという不安から、千鶴とはただ共に暮らしている状態だった。気持ちが抑えられない時、口付けを交わしてしまう。本来ならば屯所時代のように単なる同居をしている状態が好ましかったが、愛しい娘とふたりだけの生活をして、欲を抑えられるわけがなかった。すっかり娘になり、共に暮らすようになってからまた、美しくなっている千鶴を目の前にし「触れたい」気持ちを抱擁や口付けだけで留められている方が奇跡と言っても過言ではないのである。
これ以上の幸せを求めてはいけない。
自由になった筈なのにと、思わなくもないが、全ては千鶴の為だ。もし斎藤が他界しても、誰かと添い遂げられるように。千鶴の負うだろう傷が少しでも浅くなるように。その為ならば、自分を律する等何でもない。
斗南に来て尚、まるで謹慎生活を送っているかのような日々ではあったが、満たさせていないわけではない。仕事もある、給金も貰えている。貧しい土地だが、幸いにも千姫が食料を送ってくれる事もあり、食うに困る事はなかった。千鶴の料理の腕もあがっており、ささやかな幸せで満たされていた。
だが、斎藤にはひとつ大きな欲があった。これ位ならば千鶴に求めてもいいのではないかという欲である。
「おかえりなさい、斎藤さん」
「斎藤さん、夕餉の支度が出来ましたよ」
「斎藤さん、毎日お勤め御苦労様です」
「斎藤さん」
「斎藤さん」
昔から変わらない斎藤を呼ぶ千鶴の声は心地よかった。変わらぬものを信じていたが、夫婦ではないが、互いに恋慕う仲なのだから、呼び名を変えてもおかしくはない筈だ。藤堂のように気軽に名で呼べと言える程器用でなく、ただそろそろ千鶴も気付くべきなのではないかと、やきもきする気持ちを抱えていた。
夫婦ならば「夫を名で呼ばないのはおかしい」と簡単に言える。夫婦でもない、その約束を交わす事も出来ずにいる斎藤は「互いに好き合っている故、名で呼べ」と言えないまま、不本意であるが「斎藤さん」と昔から変わらない呼び名を未だ改めさせられずにいた。
勝手場で朝餉の支度をする千鶴が斎藤の気配を感じ取り「おはようございます、斎藤さん」と笑顔を向ける。その時に「そろそろ名で呼ばぬか」とだけ言えばいい。
「おはよう、千鶴」
声をかけると、千鶴は笑顔で振り向いて
「おはようございます、斎藤さん。もう少しで朝餉が出来ますので、居間で待っていて下さい」
「あ、あぁ……」
食事の時でも構わないかと、居間に向かうのだが、結局言えないまま「夕餉の時にでも」と、結局言えないまま今に至る。勿論昨日今日の話ではないのだが。
千鶴は斎藤を名で呼びたいと思わないのだろうか。疑問が浮かぶが、千鶴の事だ、特に考えてもいないのだろう。初対面の時に藤堂がしたように、自分も「一でいい」と言っていればどうなっていたのだろうか…等と、あり得ない事まで考えてしまう始末。斎藤を名で呼ぶ者は少ないが、沖田や藤堂ははじめから斎藤を「一君」と呼んでいた。勿論斎藤が「名で呼べ」と言ったわけではない。ごく自然に、当たり前のように呼ぶようになっていた。嫌だとは一度も思った事はない。違和感もなかった。寧ろ嬉しかった。試衛館の仲間だと認められたようで誇らしかったのだ。決して言葉にはしなかったが。
沖田や藤堂のように、千鶴も自然に、当たり前のように名で呼んでくれないだろうかと、斎藤にしては珍しく他力本願な考えまで浮かんでしまう始末。今の斎藤の一番の悩みは「千鶴が名で呼んでくれない」という事だ。本人にとっては真剣な悩みではあるが、以前の、斗南に来るまでの悩みと打って変わって、何と贅沢な、幸せな悩みだろうと、満ち足りた幸福を感じつつも、切実な悩みでもあった。親兄姉とも絶縁状態である今はもう斎藤を名で呼ぶ者はいない。斎藤一の名で呼ぶ者もここ斗南には千鶴以外はいないのだ。「斎藤さん」と京に出てから新選組の絶頂期に名乗っていた氏で呼ばれるのも悪くはないが、千鶴には親からつけて貰った名で呼んで欲しいという願いは日に日に膨らむばかりだった。
「藤田さん、藤田さん!」
家路につくべくいつも通りに速足で歩いていると斎藤を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると隣家の奥方だった。何事かと、歩みを止めた。
「ちょっとあんたに聞きたい事があってね」
「………」
早く用を済ませてくれないかと言わんばかりの視線を投げると
「あんたと千鶴さんの事なんだけどさ」
「何だ」
「まさか夫婦というわけではないのだろう? 千鶴さんはあんたの事を氏で呼んでいるようだし……」
自分の目の前にいる男が新選組の三番組組長だった事実を知らないようだが、この時代名を変えるのは珍しい話ではなく、以前名乗っていた名をそのまま千鶴が呼び続けているのは容易に想像がつき、特に気にも留めていなかった。だが、氏で呼んでいるという事は夫婦ではない筈だ。そして、親密な関係というわけでもないのではないか…と、捉えていたようだ。
「確かに夫婦ではない。しかし……」
夫婦のような物だと言いかけた時に
「千鶴さんを嫁にしたいって人がいてね。是非とも千鶴さんに話を通して欲しいんだけど――」
奥方の話はまだ続いていたが、あまりにもの衝撃過ぎて斎藤の耳には届いていなかった。千鶴を見染めた男がいて、嫁にしたいと。自分が灰になった後、誰かと添い遂げて幸せになってくれれば…という願いから敢えて婚姻を結ばない方がいいと、千鶴に何も言わなかったが、せめてその時…灰になる時が来るまでは千鶴と共にいたい、傍で愛したいと理性を最大限に働かせて共にいたのだ。斎藤が生きている間に千鶴が誰かの嫁になって、それを自分は目の前で指をくわえて見るというのは問題外である。
「すまないが、千鶴とは夫婦ではないが…その…将来の約束もしていない。しかし、互いに好き合っていて、共に暮らしている」
千鶴とその男が合う段取りの話を続けている奥方の言葉を遮るように、斎藤はきっぱりと言った。千鶴の幸せをこの世の誰よりも自分が願っている。だが、目の前で千鶴が誰かと夫婦になるのを見るのだけは考えられない事だった。もしもどこの馬の骨だか知らない男と千鶴がいちゃついている姿を目にしたら、斬ってしまうかもしれない。冷静でいられるわけがないのだ。
そして、今斎藤は隣家の奥方から渡された酒を手に、家の前にいた。中途半端な関係は千鶴を傷つけていたのかもしれないと知った時、例え短い夫婦生活になるかもしれなくても、千鶴を嫁にしたい。夫として、千鶴を幸せにしたいと強く願ったのは事実だが、今後もこのように千鶴を見染め「是非嫁に」と言ってくる輩が出ないという確証はないのだ。その度に「俺達は好き合っていて、将来の誓いは立てていないが、共に暮らしている」と反論していられない事態が出てくるかもしれないのだ。もしも斎藤の上司から「千鶴を嫁に」と言われた時に、断る術がない。はじめから千鶴を嫁にしておけば、流石に離縁させてまで千鶴を嫁にしたいと願う輩は出て来ないだろうという考えが浮かび、独占欲が斎藤を支配し始めていたのだ。
「しかし…どうやって切り出せば良いのか」
早く千鶴に会いたい。早く千鶴を嫁にしたい。
気持ちは高まっていたが、いかんせん口下手な斎藤だからこそ、どう言えば良いのか解らずにいたのだ。男装を解いた千鶴の着物姿を見た時に「似合っている」という言葉すら言えなかった斎藤だ。「嫁にしたい」という言葉は破壊力がありすぎて、すんなりと言える筈がないと躊躇いつつも、心の奥では既に千鶴との夫婦生活が浮かんでいたのだ。ずっと願っていた千鶴から名で呼ばれる事も叶う。愛らしい声で呼ばれるだけで斎藤は幸せでどうにかなりそうだった。
「いや、いかん。こんな所で立っていても話は進まん」
意を決して家に入り、何とも回りくどい言い方ではあったが、求婚をし、ずっとずっと気にしていた千鶴の自分への呼び方を改めさせる事に成功した。
祝言をあげ、今千鶴は斎藤の腕の中ですやすやと眠っていた。思った以上に千鶴は柔らかく、そして、愛らしかった。
「はじめさん」
斎藤を呼ぶ声も腕の中で啼く声も甘く、もっと早くにこうしていれば良かったと後悔しながらも、短い人生かもしれないが、ならばその分内容の濃い物にしようと眠る千鶴の額に口付けを落とし誓いを立て、千鶴の温もりを確かめるように抱き込み、折角明日は休みなのだから、一日中こうしていようと思いを巡らせながら眠りについた。
誓いのおかげなのか、斎藤の人生は長いとまではいかなくても、短いものではなく、子も沢山生まれ、千鶴との縁は強く結ばれ、満ち足りた日常を送る事になった。
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