となりでねむらせて
(斎藤×千鶴)
ここ数日の一の過保護状態から少し解放はされたものの、未だ一の過保護の中に千鶴はいた。言葉、行動の端々から夫の愛情が感じられた為、一体何が起こってこのような状態になったのか気にはなっていたが、その内話をしてくれるだろうと待っていた。集落は特に変わった様子もないので、もしかすると、一が言っていた通りただ「悪い夢」を見ただけなのかもしれない。そう思いかけていた。
「千鶴さん、もう大丈夫なのかね?」
声を掛けて来たのはたまに千鶴が手伝いをしに行く診療所の先生だった。
「え? 大丈夫…ですが……」
もう、とはどういう意味なのだろう。ここ斗南に来てからこれといった病気にかかった事はないし、怪我もない筈だ。
「大先生…あの……?」
大先生と呼ばれて、しまったという表情を一瞬浮かべたが
「そ、そうかね。大丈夫ならいいんじゃよ」
「待って下さい! 大先生!」
自分が知らない事が起こって、どうやらそれを千鶴は知らされていない。いや、知らされないようになっていたらしい。恐らく、一のここ数日の態度の原因だろうと、慌ててその場を立ち去ろうとしたその人を追いかけて呼びとめた。
「なんじゃね、千鶴さん」
気まずそうに振り向くと「話を聞くまでは絶対に帰りません」と言わんばかりの千鶴を見ると、深く溜息をつき「ここで立ち話も何だから、診療所に来てくれるかね。怪我の具合も気になっていたから、診させて貰うよ」と、微笑み、診療所へと足を運んだ。
「どれ」
診療所でまず千鶴の頭を触診し
「うん、傷口はもうないようじゃな。コブも消えておる。痛みはあるかね?」
一体自分に何が起こったのだろう。どこも痛みを感じないし、怪我をした事すら知らなかったのである。元々千鶴は怪我をしてもすぐに治癒してしまう為、余程の事がない限り傷が数日…いや、一日でも残る事はない。
「特に、痛みは感じません。あの…私は一体……?」
診察されている間も「何があったのか。何故私は知らないのか」と、言わんばかりの表情を浮かべていた千鶴に
「特に藤田君に口止めされていた訳ではないのじゃが…知らない方がいい事もある。思わずわしが口を滑らせてしまって、藤田君にも、千鶴さんにも悪い事をしてしまった」
そんな事…そう言いたかったが、何も解らない千鶴はただ、老医師の言葉を待つのみである。
「先日、土のぬかるみで足を滑らせた千鶴さんは転んで、頭を強く打ち、記憶を…失くしてしまったんじゃ」
老医師はそれ以上の言葉を紡がなかったが、ただそれだけで、何故千鶴に知らされなかったのか、一があのように過保護になったのか、全て納得がいった。知れば千鶴が気落ちするだろう事、一に申し訳ない気持ちになる事、それが容易に想像出来たから、硬く口が閉ざされていたのだ。
「ご心配と、ご迷惑をおかけしました」
深々とおじぎをすると
「身体も大丈夫のようじゃし、記憶も元に戻ったようじゃな。良かった」
少し申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「いえ、教えて下さって有難うございました」
もう一度頭を下げて、おそらく後一刻程で帰ってくる愛しい夫の為に、夕餉の支度をしなければ。本当は走って家に帰りたかったが、もしもまた転んで怪我でもしてしまっては一に心配をかけてしまうと、ほんの少しだけ速足で家に向かった。
干していた洗濯物を取り込み、畳んで箪笥に入れ、先程手に入れたばかりの黒い反物も箪笥にしまい込んだ。夕餉の支度にとりかかるとあっという間に時間が経った。
「ただいま、千鶴」
玄関から声が聞こえると、勝手場から慌てて玄関に向かうと、同じくその慌てる音を聞いた一もまた勝手場へと向かい
「慌てる必要はない、と言ったのを忘れたのか」
千鶴の動きを止めるべく、やんわりと抱き留めた。
「すみません…つい」
早く一の顔が見たくて走ってしまうのだ。一もそれを知っていたし、一自身家路につく時に速足になるのは千鶴に早く会いたいから、同じ想いを抱いているのが嬉しかったが、今はただ千鶴に怪我をさせたくない思いの方が強い。
腕の中にいる千鶴がいつもと変わりないのを確認するように撫で、最後に頭を…後頭部を撫でた。その仕草が以前千鶴が負った怪我を物語っていた。
(そういえば、あれからずっとこんな風に頭を……)
癖のように、千鶴の頭を撫でるようになっていたのである。ただ、愛でるというものではなく、確認をするように。
「はじめさん…私、今日偶然に大先生とお会いしたんです」
伺いを立てるように上目遣いで一を見る表情に、一は全てを知ったのだと悟った。
「そうか」
「私は…記憶を失くしていたんですね?」
「………あぁ」
こんな顔をさせたくなかった。だから、黙っていたのに。そう言わんばかりに渋い顔を浮かべる。やはり全て千鶴への配慮の為、一だけが哀しい、そして淋しい記憶を背負っていたのだと悟り
「すみません」
「おまえが謝る事はない」
「ですが……」
「もう終わった事だ」
立ち話も何だ…と、居間へと移動し、迎え合わせに座った。千鶴の顔を見ると、哀しそうな、すまなそうな、何とも言えない表情を浮かべており、記憶を失くしていたという記憶がない事に対してとても罪悪感を抱いているようだった。今にも泣きそうな、まだ涙の溢れていない眼の下、頬を両手で包み込み
「このような顔をさせたくなかったのだ」
呟くように言う一を見上げると、千鶴もまた、一にこんな顔をさせたくなかったと、眉尻を下げて「すみません」と、もう一度謝った。
「先程も言ったが、謝る必要はない」
「でも、私の不注意で……」
「これから気をつければ良い話だ」
それでも、何日間か記憶を失くしていたのは事実。その間、自分を忘れてしまったという辛さを味わなければならなかった一の気持ちを思うとどうしても謝罪の言葉しか出なかったのだ。
「はじめさん……」
真っすぐに一を見つめる眼を見て、記憶を失くしていた時の一の気持ちをくみ取っていたのが伝わり、千鶴にまで自分と同じ思いをさせたくないと安心させるべく、柔らかく笑みを浮かべ
「名を呼んでくれる、それだけで良い。それにおまえはすぐに思い出してくれた」
「でも……」
「記憶を失くしていても、千鶴は千鶴だった。まっすぐに俺を見つめ、俺を気遣い、居心地の良い場所を作ってくれていた。淋しくなかったとは言わないが、満たされた気持ちもあった」
だから、抱き締めて眠りたいと思ったのだ。
「千鶴を抱き締めて眠ったら、翌朝記憶が戻っていた。おまえも心の奥で俺と同じ想いだったのでは…と、俺は感じている」
何とも恥ずかしい言葉を言われていると、感じながらも、頬を包む指が、掌が、自分を見つめる眼がとても優しくて、記憶がなくても、いや、なかったからこそ、心の奥できっと「千鶴」がもがいていたのかもしれない。想い出したくて、ぬくもりを感じたくて。だから、一のぬくもりを感じた時に記憶がよみがえったのかもしれない。
「きっとそうだと、はじめさんの言う通りだと思います」
その時を覚えてはいないが、記憶を失くしても、目の前にいるこの優しい人を愛しく感じただろうし、彼の愛情は痛い程伝わっていたに違いない。
「あぁ。だから、おまえに早く記憶を取り戻して欲しくて、俺は自分の名を藤田五郎だと名乗った」
「えぇぇっ?!」
御陵衛士から戻り、そこから初めて会う人には決して「斎藤一」だと名乗る事はなかったが、江戸からの、試衛館の面子をはじめ、千鶴には決して新しい名を名乗る事は一度もなかった。何度も名を変える事となったからこそ、本来の自分を知る人物には「新選組三番組長、斎藤一」だと貫いていたし、彼らもまた一を山口二郎、一瀬傳八とは呼ばなかった。なのに、千鶴には現在の名である藤田五郎と名乗ったのはそれだけ名前に拘っていたからだと伝わった。早く記憶を取り戻して欲しいという願いからだ。記憶を持たない千鶴が一の名を呼ぶ意味もまた理解出来ないかもしれないというのと、近所からは「藤田さん」と呼ばれる訳もまた説明しなければならなく、ただでさえ混乱している千鶴に余計な情報を入れては可哀相だという気持ちもあった。
藤田五郎と名乗ったと言われて、驚きはしたものの、一の考えていた事は手に取るように解った。淋しさがあったが、千鶴への優しさでもあったからである。
「はじめさん」
夫の愛情を感じ、ただ名を呼ぶ事しか出来なかったが、それだけで、一は幸せだった。
「千鶴」
「私、これからもずっとはじめさんって、呼びます。もしも記憶を失くす事があっても、絶対に思い出します」
「もう失くして欲しくはないのだが」
困った笑みを浮かべると「そっ、そうですよね。すみません」と、何度言ったか解らない謝罪の言葉を述べた。
「謝る必要はないと、何度も言った筈だが」
「すっ…あ、はい」
再び「すみません」と言ってしまいそうになったが、その言葉を飲み込み、千鶴の不注意からの事故であったが、一が謝る必要はないと言うのならば、もうこの事について謝ったりするのは止めようと心に決めたが、千鶴の為を思って黙っていてくれた事、記憶を失くしている時も変わらない愛情を注いでくれた事に感謝の印を示したいと、一の頬を両手で包み、そのまま顔を近付けて唇を重ねた。
「…っ!」
突然の事で驚いたものの、眼を閉じ、口付けを続ける千鶴に応えるべく、身体を抱き寄せて、重なっているだけの唇をより深いものにした。
「愛しています、はじめさん」
「俺もだ。愛している、千鶴」
どちらからともなく、永遠の愛を誓うように、もう一度唇を重ねた。
記憶を失っている時の記憶は戻らなかったが、一の淋しさを埋めるべく、夜にふと目が覚めた時は一の腕の中から抜けて、千鶴が一を自分の胸に抱き締めて、何度も愛を囁くようになった。それに一も気付いたが、千鶴の愛情が嬉しくて、気付かないふりをして暫く千鶴の腕の中で、これ以上ない程の幸せを噛み締めていた。
しかし、どれだけ一を抱き締めて眠っても、翌朝千鶴が抱き締められているのを不思議に感じながらも、互いの体温を感じ合っているのには違いないと、狸寝入りを決め込む一の腕の中で、千鶴もまた幸せを噛み締めるのだった。
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