そばにいるのに
(斎藤×千鶴)
ここ斗南に来て暫く経ち、貧しい暮らしになると解って覚悟をしていたのだが、確かに食料等の面では裕福とは言えないけれど、それ以上に満ち足りた生活を送っていた。脱藩し、京に出てからというもの心が休まる日は送った事がなかったのだ。当時は夢中で「今思えば」というだけで、心が休まらないと感じた事はなかったのだが。
謹慎中は千鶴が作った飯を食べられなかったが、新選組時代、袂を分かってからも、千鶴は斎藤の傍にいて、炊事、掃除、洗濯等、甲斐甲斐しく世話をしており、今もそれと何ら変わりはなかった。だが、今では斎藤ただ一人だけの為に日々磨かれた家事の腕前を惜しむ事なく披露していた。
謹慎が解けたすぐ後に、久しぶりに千鶴の手料理を食べた時、改めてこの味を心から欲していた事を自覚した。元々感謝はしていたし、食事も美味いと感じていたが、それをいつの間にか当たり前のものだと思っていた事に気付いたのは謹慎生活を送るようになってからだった。久しぶりに口にするそれは何と幸せな事か。それを当たり前のように感じ、礼を口にする事もしなかったと反省をし、再会してからは常に千鶴に感謝の言葉言うようになった。
いつまでも当たり前のようにある筈がなかったのだ、と頭では解っていたのに、それが謹慎生活に入り現実のものとなった時に愕然とし、戦火の中におり、とても幸せな日常ではなかったというのに、千鶴が傍にいて、彼女が作る料理を口にするだけでどれだけ自分が満たされていたのか改めて知る事になったのである。
もう会う事はないと、斎藤自ら「待たずとも良い」と言ったのだ。だから、まさかまたこのように千鶴の手料理を食べられるとは…何て自分は果報者なのだと改めて千鶴の愛情に感謝していた。
皆のもの…というのは語弊があったが、千鶴の手料理、千鶴が洗った着物、それらは自分だけに与えられたものではなかった。なのに、今はそれを独占している。これ以上の贅沢はない。ただ、千鶴が自分の傍にいる。それだけで何と満たされるものなのか。それ以上望んではいけない。
(俺は…羅刹だ)
千鶴のおかげで羅刹の毒は薄れた。この地の水も良い。人間に戻れたとは思わないが、より人間に近いものになっているだろう。それは自分でも解っていたが、それでも、これ以上千鶴を哀しませるような事はしたくない。
(このような所まで連れて来て、今更何を言うのだと思われても仕方がないが)
まるで夫婦のような生活を送る事になっていたが、それは表向きそのように見えるだけで、ただ他の隊士がいないだけで、彼らが送っていた生活と何ら変わらなかった。違うのは「好き合っている」というだけ。斎藤が千鶴に触れる事もあったが、ただ優しく抱き締め、手を繋ぎ、時折唇を重ねる程度だ。
千鶴がどう感じているのかは解らないが、元々十代後半から新選組と共に…しかも男装をして生活をさせていたせいか、沢山の事を我慢させ、千鶴自身それに慣れてしまっていた。本当ならば誰か好きな人と、それでなければ、父が決めた相手と婚姻をし、幸せな生活を送っていたのではないかと思えば思う程、良心が痛んだ。父が決めた…と言っても、あの綱道が決めた相手となると、恐らく風間だったのだろうから、それはそれで苦労をしたのやもしれないが、それでもこのように出逢うのではなく、父の紹介で出会い婚姻をしていたのならば、怖い思いをせずに嫁に行けたのではないかと思うのだ。
しかし、今更もう千鶴を手放す事は出来ない。自分ではない誰かと、羅刹ではない者と一緒にいた方が千鶴の為だ。それは解っていても、どうする事も出来ない位に千鶴を必要としている自分に驚いていた。
せめて、自分が灰になり、千鶴がひとりになった時、誰かと別の人生を共に出来るよう、婚姻という形はとらないでおこう。でないと、自惚れではないが義理がたい千鶴の事だ、もし婚姻をしていたら斎藤が灰となり、ひとりになったとしても、斎藤への愛を貫き、他の人との人生を考える事すらせず、残された時間を孤独さえも淋しいと言わずに過ごすのではないかと考えると、今以上の関係になる事を躊躇わせた。
夜、いつものように布団を隣り合わせに敷き眠っていたのだが、何故かこの日は目が冴えて眠りにつく事が出来ずにいた。手を伸ばせばそこに千鶴がいる。屯所時代にはありえない距離だったが、ふたりで行動するようになり、千鶴を守る為に同じ部屋に泊まるようになったし、宿に辿りつけずに野宿する事になれば斎藤の腕の中で眠らせた。ここ斗南に来た時は何故か寝室を別に作ろうと…いや、居間で眠ろうとした千鶴から布団を取り上げ、寝室に敷かれた自分の布団の隣に敷いて、共に眠る事を強制させたのはいいが、こうして眠れない夜は胸が苦しくなった。穏やかに眠る千鶴を見るのは幸せであったし、とても心地の良いものでもあった。だが、手を伸ばせば届く場所にいる千鶴に触れる事の出来ないもどかしさを感じずにはいられなかったのだ。
(そばにいるのに…)
起き上がり、千鶴の頬に触れると愛おしさが押し寄せる。
(このように触れる事も出来るというのに……)
穏やかな表情の千鶴とは正反対に斎藤の表情はとても苦しそうに歪み
(抱きたい…!)
千鶴の事を考えて、一線を越えずにいようと決めたというのに、どうしてこうも欲望というのは消えてくれないのだろう。日に日に千鶴への想いは増すばかり。
(この腕に閉じ込め、誰のものにもならないよう、痕をつけてしまいたい)
何て恐ろしい感情なのだろう。このような気持ちを抱いている等と千鶴に知れてしまっては呆れられてしまうだろうか。呆れられる所か嫌われてしまうかもしれない。男と女の事を詳しく知っているようにも思えない。勿論、医者の娘なのだから、医学的に知っている事はあるだろうが。普通ならばとうの昔に誰かと夫婦になり、自然と知った事を教えないまま、いや、教えるのもどうかと思うが、自分達が無垢なまま閉じ込めてしまったのだ。
婚姻をせずとも、将来の約束をせずとも身を繋げる事は出来る。だが、千鶴に対してそんないい加減な事はしたくないと、この日もまた規則正しい寝息をたてる千鶴の吐息を優しく奪い、自分の布団に戻った。
こうして苦しい夜を過ごすのは一度ではなく、何度も抱きたい、いっそ自分のものにしてしまえばよいのでは…そう思いながらも、ギリギリの所で理性が勝ち、優しく触れるだけに留まっていた。それは斗南に来てから見せるようになった幸せそうな千鶴の笑顔を毎日目にするようになったからなのか、触れられなくても、斎藤自身心が満たされている部分も大きいからなのか解らなかった。
ただ、千鶴が笑っていれば、幸せそうにしているのならば、それだけで良い。
夜に目覚める事さえなければ、このように苦しい思いをせずにすむと、普段以上に仕事に励み、疲れて帰ると千鶴が心配をし、いつも以上に甲斐甲斐しく世話をする姿を目にすると、その疲れも吹っ飛んでしまい、愛しさ故に寝室にいないというのに、千鶴を抱きたいという渇望がわき、苦しむ事になるのだが、優しく抱き締め、触れるだけの口付けをかわすだけに留めて、どす黒い欲望を何とか抑え込むのだが、一層の事婚姻をしてしまった方が良いのだろうか。しかし、血が薄れても羅刹は羅刹。千鶴を不幸にしてしまうだろうと思うと、千鶴にとっての幸せとは何なのだろうと考えるようになっていた。
隣家の奥方からふたりの関係を聞かれて酒を持たされ、どう切り出すか、そしてずっと気になっていた呼び名の事もこれを機会に口にする事が出来ると幸せな悩みが押し寄せるのはこの二日後の事である。
|
|