ねがい 2
(斎藤×千鶴)
翌日、千鶴は医者に診て貰ったが、記憶がいつ戻るのか、本当に戻るのかは解らず、打った頭にこぶは出来ていたが、それは日が経てば治るだろうとだけ言われ、無言のままふたりは家路についた。
「すみません……」
「何故、おまえが謝るのだ」
「だって…記憶がいつ戻るか解らないと……」
「仕方のない事だ」
「元は私の不注意で転んだようですし……」
「それはこれから気をつければ良い」
「………」
「ともかく、怪我も打ち身と、こぶだけで済んだのだ。それは不幸中の幸いだ」
気にするな、と千鶴の頭を撫でてやると「……はい」とすまなさそうに頷いた。
「あの……」
「どうした?」
「私はあなたの…旦那様の事を何と呼んでいたのでしょうか」
千鶴の記憶がなくても、ふたりは夫婦だ。普段に近付けられるよう、今までのように過ごせば何か思い出せるのではないかと、自分は以前夫をどう呼んでいたのか知りたくなった。
「名で……」
「名?」
「あぁ、名で呼んでいた」
「という事は…五郎、さん…ですか?」
「そう…だな」
本当は「はじめさん」と呼んで欲しいと思っていた。だが、その説明をした所で、その意味を今の千鶴に自分の思いは届かないのかもしれない。そう思うと、千鶴が悪いわけではなかったが、胸が苦しくなる。
(ずっと「はじめさん」と呼ぶと言っていたのではないのか)
記憶がないのだ。そんな事を思っても意味はないし、千鶴を傷つけるだけだ。解っていても、もう二度と「はじめさん」とあの優しい声で呼ばれる事はないのだろうかと、不安は募るばかりだった。
「五郎さん」
夫を呼ぶだけなのに、それまでの「雪村千鶴」の記憶が戻ったわけではないのに、胸が痛み、呼ばれた一もまた複雑な顔をしているような気がした。記憶を失くしてから数日が経ち、形だけの夫婦としてではあったが、共に暮らしてみて、あまり表情の変わらない人なのだという事は解ったが、それでもその少ない表情の、僅かな表情でも彼の感情の起伏が解るようになっていた。だから千鶴が名を呼ぶ度に淋しそうに笑う一に何かしてやれないのだろうかと思うが、それはただひとつ、記憶が戻る事以外の何物でもないと解っていた。今千鶴に出来るのはただ「妻らしく」いるしかないのだ。
夜、同じ部屋に布団を並べて眠ってはいたが、ただ一緒の部屋で眠っているだけだった。もし、一が今の千鶴を求めたとしても、千鶴はそれを拒む事はしなかっただろう。それは一も気付いてはいたが、互いに愛しい、幸せだと思えないのにただ身体を重ねるのは自分の性欲の捌け口にしているようで、触れる事が出来なかったのである。
しかし、いつも千鶴を腕に閉じ込めてと眠っており、それが当たり前になっていた一は離れて眠る千鶴に意識をやり、仕方がないとはいえ、何故目の前にいるのに抱き締める事が出来ないのかと、深く眠る事が出来なくなっていた。
(昔はこの距離が当たり前だったというのに、慣れというのは恐ろしい物だな)
決して淋しいとは言えない。そう言ってしまうと千鶴を余計に落ち込ませてしまうだろう。取り戻そうと思って記憶は取り戻せるものではない。ただ待つしかないのである。だが、待った所で必ず戻ってくるものでもなく、もしかすると記憶は戻らないかもしれない。では、自分の想いはどこにやればいいのか。誰よりも愛しいのに「愛しい」と抱き寄せる事も出来なかったのだ。
この日もまた、同じ部屋に布団を離して敷き「おやすみなさい、五郎さん」「あぁ、おやすみ。千鶴」とあいさつをし、互いに背を向けて眼を閉じた。背中越しではあったが、千鶴も眠れていないのに気付き「千鶴、頼みがあるのだが…」と話しかけた。
「はい、何でしょう」
振り向いて一の方を見ると、暗闇ではっきりとは見えなかったが、一が千鶴をじっと見ているのが解った。
「…嫌だったら、嫌だと断ってくれて構わないのだが……」
「はい……」
「その…隣で眠っても良いだろうか」
「?」
いつも隣で眠っているのに、隣とはどういう意味だろうと、首をかしげる千鶴に
「……共に、眠っても良いだろうか」
意味を理解して、頬を染めたが「はい」と返事をすると、掛け布団を捲り「こちらへ…」と千鶴を招き入れると、そのまま千鶴を腕の中に閉じ込めた。緊張して身体を強張らせる千鶴だったが、おかまいなしにぎゅっと抱き締め「千鶴…」とただ名前を呼ばれただけなのに、どうしようもなく自分は愛されているのだと、一の愛情を感じて強張って堅くしていた身体の力が抜け、千鶴も深く眠れずにいたのだが、すぅっと、睡魔に襲われ、安心して眠りに落ちたのを感じ、一もまた千鶴の温もりを感じながら深い眠りに落ちた。
トントンと、勝手場から朝餉の支度をする音が聞こえ、久しぶりに眠れた一は変わらず朝餉の用意を朝早くから始めている千鶴の元へと行くと「おはよう、千鶴」と声を掛けた。
「あ、おはようございます、はじめさん」
振り向いて笑顔を見せる千鶴に、目を見開いて立ち尽くす一に「どうかされましたか?」と顔を覗きこんだ。
「い、今何と……?」
「ど、どうかされましたか…と」
「いや、その前だ」
首をかしげて「おはようございます?」と答えると「いや、その後だ」と言われても、特に変わった事は言っていない筈と「私、何かおかしな事言ってましたか?」と考え込む千鶴を抱き留め「俺の名を呼んでくれないか」と、祝言の時のようにせがむ一に「はじめさん」と、幸せそうに微笑んで愛しい夫を呼んだ。
「千鶴っ!」
「はじめさ…んぅぅ」
呼び終わる前に口を塞がれ、深い口付けを与えられた。息が出来ないと、一の背中をトントンと叩いて訴えてみたが、少し唇を離して、一はまた深い口付けを千鶴に落とす。口付けの間に「千鶴、千鶴」とまるで愛を囁いているかのように、甘い声で千鶴を呼ぶ。
「ど、どうし……」
どうしたのか、と聞きたいが、唇を塞がれたままではまともに問い掛ける事など出来る筈もなく、朝から千鶴を求めるような深い口付けを与える一に戸惑いを感じながらも、悪い夢でも見たのかもしれないと、優しく背中をさすった。
漸く落ち着いたのか、唇を離し
「俺が誰だか解るのだな?」
「勿論解るに決まってます。どうされたんですか? 悪い夢でも……?」
記憶を失っていた時の事を全く覚えていない千鶴に「記憶を失っていた」と教える必要もないと
「あぁ、悪い夢を見ていた。覚めない夢だと……」
千鶴の形を確かめるかのように、頬に、唇に手を当て、もう一度、今度は優しく唇を重ねた。
(本当に今日はどうしたんだろう。はじめさん…どんな怖い夢を見たのかな……笑顔もいつも以上に甘い気がする)
特に会話があるわけでもない、いつもと変わりない筈なのに、一は千鶴が名前を呼ぶ度に千鶴に触れた。
「行ってくる、千鶴」
「行ってらっしゃいませ」
玄関で一を見送る千鶴を抱き寄せ「今宵は眠らせてやれぬかもしれん」と耳元で囁き、耳朶に舌を這わせてもう一度「行ってくる」と言い、出かけた。
「ええぇぇぇぇええぇぇぇええ!!」
言葉の意味を理解するのに少し時間がかかり、上げた悲鳴は数歩歩いた一の耳にも届いたが、おそらく顔を真っ赤にしているだろう千鶴を想い口の端を緩めた。
「千鶴、急いで歩く必要はない」
「千鶴、走る必要はない」
「千鶴、焦らずともよい」
暫くの間、一はまるで子供の躾をするかのように、口うるさく千鶴の動きに注意をし、必要以上に過保護になり、千鶴にとって夫の突然の変わりように戸惑いを隠せずにいたが、何かあって過敏になっているのだろうと「はい」と返事をしていたのだが「千鶴、一歩歩くごとに十数えると良い」と言われた時は「それだと何も出来ませんよ」と反抗をしたが「家事ならば俺が帰ってから手伝う故、心配せずとも良い」と答えられ、言葉を失くすのだった。
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