がい 1

(斎藤×千鶴)

 いつものように、千鶴は一が仕事に出た後、家事をこなしていた。幕末の動乱を共にし、明治に入ってからも戦争は中々終結せず、平穏な日とは遠い場所で生活をしていた為、漸く訪れた幸せな日々に感謝をしながら過ごしていた。元々家事は好きだったし、幼い頃から父とふたり暮らしだった為、家事は得意だったから何も問題はなかった。愛する人との暮らしは千鶴にとって満ち足りたもので、時折こんなに幸せで大丈夫なのだろうか、この後に何か悪い事が起こるのではないか…と思ってしまう程である。満ち足りているといっても、斗南の土地はとても痩せており、裕福な暮らしではなかったが、それでも一と一緒にいられるのならば、どんな土地でも楽園だと思える位であった。
 一緒に暮らせるだけでも充分だった筈なのに、ささやかだが祝言もあげ、夫婦となった。照れ屋の一からその言葉が出てくるまで時間がかかったが、それもまた一らしくて忘れられない夜になった。まさかずっと名前で呼ばれたいと、気になっていたとは知らず、何度も「はじめさん」と練習するはめになるとも思わず、あんな顔を真っ赤にしてせがむ一を見たのは初めてで、本当にこの人についてきて良かった、好きになって良かったと心から思ったのだ。
 祝言の翌日、一が斗南に来てから「藤田五郎」と名を改めていた事を思い出し、いや、新選組にいた頃から何度も改名していたが、千鶴はずっと「斎藤さん」と呼んでいた。それに対して隊務以外の場所では特に咎める事もなく、千鶴が出逢った頃の一の名前で呼び続けていた。千鶴だけでなく、新選組幹部もその名で呼んでいたし、近藤や土方も改名していたが、元の名前で呼んでいた事もあり、新たに付けられた名前に馴染む事なく、ここ斗南に来てからも千鶴は「斎藤さん」と呼び続け、夫婦になって「はじめさん」と名で呼ぶ事になったのだが、ここでは一を「藤田」と呼ぶ者ばかりだった為、千鶴も妻として今の名前で呼んだ方がいいのではないだろうか…と、仕事から帰って来た一に「おかえりなさい、五郎さん」と呼んでみたのだが、顔を顰め返事をしなかったのだ。
「五郎さん?」
「………」
「ご、五郎さん……?」
「………」
「はじめ、さん」
「何だ」
「五郎さん」
「………」
「はじめさん」
「……何だ」
 段々眉間に皺を寄せる一に「今は藤田五郎ですから、やはり五郎さんとお呼びする方がいいのかな…と思ったのですが……」
「――今まで、何度も名前を変えて来たが、隊務中にそう呼べと言っても「斎藤さん」と呼び続けたおまえが何故今更変えた名前で呼ぼうとする?」
「ですから、今は藤田五郎と名乗っているわけですし、藤田という氏は容保様に戴いた名です」
 だから、これからは新しい名前でお呼びした方がいいのではないかと…と、続けた。
「確かに、容保様から戴いた氏だが、おまえには昔の名前…いや、本当の名前、と言っておこうか、その名で呼んで欲しい」
「本当の名前?」
「斎藤一というのが俺の言う本当の名ではない。生まれた時は山口一という名だった。斎藤と名乗ったのは京に来てからで、一というのは親がつけてくれた名だ。何度も名を変えたが、おまえには今の名ではなく、親がつけてくれた名で呼んで欲しいと思っている」
「山口一……そういえば、新選組いた時、御陵衛士から帰られた時は山口二郎と名乗ってらっしゃいましたね」
「あぁ。山口家の二男という事で、その名をつけた」
「二男?」
「あぁ、俺には兄がいる。二男だから、二郎と名乗った。ただそれだけの事だ」
「そうだったんですね」
「特に名に思い入れなどない。名を変えなければならなかった故、その時その時で変えていたが、おまえだけには親がつけてくれた、本当の名で呼んで欲しい」
「はい」
 素直に頷く千鶴の頬に手をやり、優しく撫でると頬を染め一に微笑みかけた。
「はじめさんが名前に拘っていたのは名前を大切に思っていたからなんですね」
「……そういうわけではないのだが」
「はじめさん」
「何だ」
「はじめさん」
「どうした?」
「私、これからずっと、はじめさんって呼び続けます。もし、子が出来て「お父さん」と呼ばなければいけなくなったとしても、そう呼びます」
「あぁ。千鶴がそう呼び続けてくれるのならば、俺が誰なのか、何者なのか忘れる事もなかろう」
 その言葉で今まで名を変えて来た分、自分自身が無くなる感覚に囚われていたという事に気付いたのだ。それだけ過酷な仕事をしていた一の精神状態を千鶴は垣間見た気がした。どんな気持ちで名を変えていたのか、どんな気持ちでその名を呼ばれていたのか…新選組幹部達が千鶴と同じように「斎藤」と「一君」と呼び続けていたのはそれが解っていたからなのかもしれない。

「おかえりなさい、はじめさん」
「ただいま、千鶴」
 祝言を上げてから数カ月が経ち、名前で呼ぶと誓っても、中々癖というものがなくならず、ふとした時に「斎藤さん」と呼んでしまう事がはじめの頃はあったが、今では間違える事なく、昔「斎藤さん」と当たり前のように呼んでいたように「はじめさん」と呼ぶのが普通になっていた。
「先にお風呂に入られますか?」
「あぁ、そうだな」
「では、用意してきますね」
 急ぎ足で行こうとする千鶴に「雨は止んでいるが、土がぬかるんでいる。そう急ぐな。転ぶぞ」と、声を掛けるが「はい」と答えつつもバタバタという音が聞こえ、少しでも早く湯に浸かって欲しい、疲れを取って欲しいと急ぎ足になるのだろう。一は心配をしながらも、いつでも自分を気遣い、居心地のよい場所を作ってくれている千鶴を想い口の端を少し上げた。
 居間で座っていると「きゃっ」という悲鳴の後にドシンという鈍い音が一の耳に届き、すぐに外に出ると倒れている千鶴に駆け寄り「千鶴、千鶴!」と声を掛けたが、意識を失っているようで、目を開けない千鶴を抱き上げ寝室に連れていくと、泥まみれになった着物を脱がせて、身体を拭き、新しい着物に着替えさせて布団に寝かせた。おそらく頭を打ったのだろう。手ぬぐいに水を含ませて絞り、額や後頭部に当ててやると、ゆっくり眼を開け、意識が戻った千鶴に「千鶴!」と、呼びかけた。
「大事ないか?」
「………」
「千鶴?」
「………」
「どこか痛むのか?」
「………」
 目を開けたというのに、ぼんやりと一を見つめたまま何も答えない千鶴の頬に両手をやり「千鶴…」と、呼びかけると
「誰…ですか…?」
 と、予想もしなかった言葉が一の耳に入った。
「私は…誰…でしょう…あなたは……?」
 感情の籠っていないガラス玉のような眼で一を見る千鶴に、言葉を失って何も言えなくなり、何が起こっているのか一にも解らなくなったが、取り乱すわけにもいかず、混乱でどうにかなりそうだったが、自分が落ち着かなければと「記憶が…ないのか?」と問い掛けた。
「……すみません」
 と、申し訳なさそうに謝り、起き上がろうとする千鶴を制し「先程転んで頭を打ったようだ。暫く横になっているといい」と、もう一度濡れた手ぬぐいを額に当ててやる。
「あの…私は誰でしょう…あなたは……?」
 もう一度同じ質問をしてくる千鶴に
「俺は藤田五郎、おまえは雪村千鶴。俺達は夫婦だ」
 と、簡潔に答えた。
「夫婦……」
「あぁ」
「そう、ですか」
 微笑むでも、哀しむでもなく、ただ確認作業をしているかのように無表情のまま一を見つめた。
(そのような眼で俺を見ないでくれ)
 初めて見る何の感情も宿さない千鶴の顔を正視出来ず、視線を反らした。
 出逢った当初でも、こんな表情を見せなかった千鶴に戸惑いながらも、何も覚えていない千鶴の方がもっと不安だろうと、共に過ごし、ここ斗南に来てから夫婦になった事を簡単に伝えた。
 思い出そうとする度に頭痛からなのかこめかみを抑え、顔を顰め辛そうな表情になる千鶴に「無理に思い出そうとしなくとも良い。今はゆっくり休め」と言うと「でも…」と申し訳なさそうに「何も覚えてなくてすみません」と続けた。
「明日、医者に診て貰おう」
「……はい」
「腹が空いているだろう。何か作って来よう。待っていろ」
「え? いえ、私が……!」
 再び起き上がろうとする千鶴の肩を抑えて
「急に起き上がるのは良くない。おまえは横になっていると良い」
「で、でも……」
「千鶴程美味い料理は作れないが、俺も料理位作れる。心配するな」
 決して料理の腕前を心配して起き上がろうとしたわけではないのだが、自分の事や一の事等は忘れてしまっていても、妻がすべき事等の認識はあるようで、夫にそんな事をさせるわけにもいかないと「私も手伝います」と、食い下がってくる千鶴に「記憶はないようだが、千鶴は千鶴なのだな」と少し微笑んで「ともかく、横になっていろ」と寝室を出た。
(優しい笑顔……)
 それまで心配そうな顔しか浮かべてなかったし、あまり表情がなさそうな印象を受けていたが、ふと見せた笑顔に、自分はとても大切にされていたのだろう事に気付き、何も思い出せず、とても不安ではあったが藤田五郎と名乗ったこの人が自分の旦那様ならば大丈夫だと、言われた通り横になった。