巻く夜空 1

(斎藤×千鶴)

「俺を待たずとも良い」

 長い戦争が終結し、斎藤が会津藩士として謹慎される事になった時、別れ際に千鶴にそう告げた。斎藤が何を言ったのか把握出来ずに、ただじっと見つめている千鶴に
「おまえは静かな土地で、達者で暮らせ」
「嫌です。私…斎藤さんを待ってます」
 漸く別れを告げられている事に気付いた千鶴は斎藤に詰め寄る。
「聞いていた筈だ。俺はこれから会津藩士として謹慎生活に入る。そしていつ出られるか解らぬ」
「それでも構いません。いつまでも待ってます」
「だから、待たずともよい、と言っている。おまえは自分の幸せをつかめ」
 踵を返し、斎藤の背に向かって「ずっと待ってます」そう言い続ける千鶴の声に振り向く事なく「これ以上俺の犠牲になるな」と、小さく呟くのだった。
 そう、いつ出られるか解らない謹慎生活。何年になるか、いや、何十年になるかもしれない。羅刹となった斎藤の身体が朽ち果ててしまう方が先かもしれない。そんな自分を待っていて欲しい等言える筈もなかった。千鶴と添い遂げられたら…そう願ったのも確か。しかし、今のこの状態でそれを願うのは…いや、千鶴に押し付けるのは彼女を不幸にするだけの事でしかないと思ったからだ。いつ明けるとも解らない謹慎生活。そんな先の見えない約束等、斎藤に出来る筈もなく、互いに辛いだろうけれど、これが千鶴にとって一番の幸せなのだと信じた。もしも斎藤が傍にいない時に千鶴を想い、大切にする男が現れ、千鶴も心惹かれた時に、斎藤との約束が枷になってしまうのが怖かった。勿論、そんな事は考えたくもなかったし、生涯唯一この女だと決めた女性を簡単に手放したいなどと思う筈もなく。本当ならば、自分のこの手で幸せにしてやりたかった。いや、それが斎藤自身の幸せでもあったのだ。もし、そのような未来を掴めるのならば…そう願い闘ってきたが、それも叶わぬ今、千鶴の視線を背中越しに感じつつも振り向く事なく、その場を去った。

 いざ、謹慎生活に入り、今までとまるで違う生活にも意外とすぐに慣れ、それは間者をしていた経験からなのか、それとも闘いから離れ穏やかな生活を身体が求めていたからなのか斎藤自身にも解らなかったが、千鶴を忘れる事はなかった。戦争が終結したとはいえ、争いごとがなくなったわけではなく、幕府側の人間…いや、残された家族達が被害に遭っているという話を耳にする度に、今千鶴はどこで暮らしているのか、無事でいるのか、何故自分はただ離れる事だけしか頭になく、千鶴が安心して暮らせる場所を用意してやらなかったのかと、千鶴が斎藤の女だと知られる事となり、襲われるという夢を見ると、せめて千鶴が普通に暮らしているという事だけでも知りたいと思い、彼女に知られずにどうにか様子をうかがう事が出来ないかと考える日々を送っている時に、斎藤に面会だと、部屋に呼ばれ「一体誰なのか…」と、まさか元新選組の面子ではない筈だから、それ以外に自分に会いに来る人が思い浮かばず、部屋に入るとそこには天霧が座っていた。
「元気そうでなりよりです」
 そう言うと、風呂敷を斎藤に差し出した。
「……これは?」
「君の発作を抑える薬です」
 発作…と言われて、すぐ供血作用の事だと気付いた。そう、千鶴のいない今、発作が出た時は部屋に籠り誰にも気付かれないよう、血に狂わないようただじっと我慢をしているしかないのだ。
「―――何故これを俺に?」
「前にも言いましたが、君が本物の武人だからです。羅刹の血は少しずつ薄れてはいくでしょう。しかし、それと同じように命も削られていく。だが、この薬を飲めばそれも抑えられるでしょう」
「……すまない」
 薬を受け取り、立ち去ろうとする天霧に声をかけそうになっていた。そう「千鶴はどうしているのか」と。彼が知るよしもない事だろう。しかし、鬼同士何か繋がりを持っているかもしれない。だが、言いかけた言葉を飲み込み天霧が去ろうとした時
「雪村千鶴ならば、千姫と一緒におります」
 そう言い残して部屋を出た。

(そうか。あの時の女子と一緒にいるのならば、安心だろう)
 天霧が出て行った扉をぼんやりと見つめながら、昔千鶴を引き取りたいと申し出た事、彼女が千鶴と同じ鬼であるという事を土方から聞いていた斎藤は千鶴が以前千鶴を守りたいと言って申し出た千姫ならば、何も案ずる事はないだろう。男装も解き、女子として幸せな生活を送れるだろう。
 そう、思うと傍に自分がいない事を酷く淋しく感じたが、いつこの謹慎がとかれるのか解らない自分を待たせる訳にはいかぬと、自分の決断が間違っていないと自分自身に言い聞かせた。それまでも、新選組で幹部達は気を赦してからというもの、雑務に勤しむ千鶴にとても感謝をしていたが、千鶴にとってはどうだったのだろう。結婚をし、家人の世話をしているわけでも、父親の世話をしているわけでもないただの赤の他人で、しかも、ただ同居していたのではなく、監禁をしていたのだ。はじめの頃は脅えていたが、千鶴も心を許してくれていたのは斎藤にも解っていた。だが、それとこれとはまた別問題で、年頃の女子が男装をしたまま生活を何年も余儀なくさせられていたのだ。精神的苦痛がなかったとは到底思えないのである。そこから解放され、今漸く女子としての幸せを掴む事が出来るようになった。例え謹慎生活が解けたとしても、それらを思い出させてしまう自分が傍にいるのは良くないのではないかと、そこまで考えてしまうのは千鶴が傍にいないからなのかもしれない。斎藤を好きだと告白し、共にいたいと過酷な運命になるのが解っているのにも関わらず、斎藤の傍を方時も離れないと言った千鶴が愛おしくてたまらなかった。今の自分に何が出来るかといえば、斎藤を待たせる事ではなく、千鶴の幸せの為、彼女を解放してやる事ではないだろうか。
 夜、窓から見える空を眺めながら、千鶴を想った。例えこの先の未来に千鶴が傍にいなくても、彼女を想い、幸せを願おうと、そう誓った。
 日々の苦悩も、千鶴を想えば耐えられたし、薬が無くなる頃には天霧が薬を届けられ、その度に千鶴の事を聞いていたわけではないが、天霧が何も言わないという事はきっと、千鶴が平穏に暮らしているのだろうと想像がついた。それは斎藤にとって一番の知らせだったのだ。
 喉が渇く血の飢えも減り、羅刹の血が薄れて来て、薬の量も減ったが、静かな夜に血の乾き襲われた時はもがき苦しみながらも薬を飲んで、夜空を眺めて供血の苦しみから解放されるのをじっと待った。
 千鶴と共に見た夜空はとても澄んでいて綺麗だった。斎藤の迷いも包み込んでくれるような夜空だったが、今は星も見え、何ら変わらない筈なのにそれはとても渦巻いているように見え、斎藤の迷いは更に混沌としていくような気がしていた。
 近藤を亡くし、土方も亡くした今、斎藤には何が残されているのだろう。もう微笑みかけてくれる千鶴はいない。「斎藤さん」と呼ぶ声はそこにはないのだ。自分からそう仕向けた癖に、千鶴のいない淋しさを何で補えばいいのか、それは斎藤自身解らなかったし、おそらく補えるものなどないのだろう。
 この渦巻くような夜空のように、これからの斎藤の人生は例え平凡な日々が待っていようとも、心が穏やかな日はきっと来ないと、千鶴が斎藤にとってどれだけ大きな存在で、そして愛しい唯一の存在だったのかというのを実感していた。