紅いに込めた想い 3

(斎藤×千鶴)

 久しぶりに仕事が早めに終わり、どうしてもいつもと様子が違っていた千鶴が気になり、速足で家路に向かう一の後から声がかけられ訝しげに振り向くと、斎藤家の隣家の奥方が睨むように一を見ていた。
「どうしようかと、思ったんだけどねぇ。あんまりにも千鶴ちゃんが可哀相で、見てられなくってさ」
「千鶴が…どうかしたのか? まさか、倒れたのか? 今朝も様子がおかしかったが……」
 と、踵を返して家に向かおうとする一の腕を取り
「違うよ。そりゃ、体調を崩してもおかしくはないかもしれないけど、原因はあんただよ、藤田さん」
「……俺が?」
「あんた、あんなに千鶴ちゃんの事を大切にして、好き合ってるって私に言ってたけど、そうじゃなくなったのかい? いや、男の甲斐性って言われちゃ、言い返す事は出来ないけど、でも、あんなに尽くしてる千鶴ちゃんを無下に扱うなんて……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何の話だ?」
「あんたが、女の人と口付けしてる姿を見た人がいるし、私も女の人と寄り添ってる所を見かけたし、皆にその内旦那から妾が出来たって言われるんじゃないかって言われててねぇ。あんたの事を信じてるって必死で言ってたけど、凄く落ち込んでてね。あんたの帰りも最近遅いようだし、妾宅にでも通ってんじゃないかって噂もされてるんだよ」
「……なっ!」
 あまりの話だったのか言葉も発せずにいたが
「ち、千鶴もその噂を…?」
「あぁ、勿論知ってるよ。直接皆からその話をされているからね。可哀相に、涙を必死に堪えて…いたたまれなくて話を止めさせたんだけど、一度耳にしてしまったものは聞かなかった事に出来るわけもいかないし、私もあんたたちを見かけたから慰めの言葉も出なくってさ」
「す、すまない。直接千鶴と話をしたい」
 元々急ぎ足で家路に向かっていたが、駆け足で千鶴の待つ家に向かう。家に入ると居間に座りこんでいる千鶴の姿が眼に入り
「千鶴」
 声をかけると身体がビクッと震えるが、一の方を見ようとしない千鶴の前に回り込み、顔を見ると眼を真っ赤にして涙がボロボロと流れていて、泣いていた事に気付いた。
「……!! 千鶴!」
 悪い考えばかりが浮かんで、どうにもならなくなってしまっていた千鶴はまさか一がこんなに早く帰ってくるとは思わなくて、見られてしまった顔を手で覆い、もう遅いと頭で解っていても涙を拭おうと手で眼を擦ったが、その手を取り唇で千鶴の涙を拭い
「俺が好いているのは千鶴だけだ」
「……はじ…め…さん……?」
「隣家の奥方から話は聞いた。全くの誤解だ。しかし…すまない。おまえにこんな顔をさせたくなかったのに……」
 顔を歪ませ、強く抱き締めて
「俺はおまえに自分の気持ちをきちんと言葉にしていなかった事に気付いた。おまえならば言葉にせずとも理解してくれていると甘えていた。もう一度言う。俺が好いているのはおまえだけだ、千鶴。誰かをこんなに愛しいと想うようになったのもおまえだけだ。だからおまえは俺の想いに胡坐をかいてくれてもいい位だ。それだけは信じてくれ。いや、信じてくれていると思っていた俺が悪かったのだ。こういう事は言葉にしなければならないのは解っていたのだが…すまない。ほんの少しの誤解で気持ちがすれ違うという事を考えずにおまえに甘えていた。千鶴を哀しませるだけだと気にもせずに……」
「は、はじめさん……」
「どのような噂で、おまえがどこまで話を聞いているのかは知らぬが、全て誤解だ。だが、隠していた事はある。それは知らせたくなかったというか…知らせずとも良いと判断したからなのだが……」
 ポツポツと一は千鶴に隠していた事を話しだした。
「この土地は貧しい。うちはお千がこまめに食料を送ってくれているというのもあって、さほど食べ物に困っていないし、給金もきっちりと貰っている。だが、皆が皆そういうわけではなく…ここには島原のような花街はないが、家庭を助ける為に女子が身体を売っている。それも結婚して嫁に出ている女もそうしている」
「…え?」
「おそらく、近所の奥方達が見たのは俺が…女に声をかけられた時の事だろう。勿論俺は断っている。聞けば同僚の奥方だった。故にこのような事をするなと、家まで送った事がある。しかし、やはり貧しい暮らしからか、同僚も知っての上で身体を売る為に外に出ていて、俺はまた誘われた。その度に家に送り届けたのはもしもうちが貧しくて千鶴が俺に隠してそのような仕事をしていたら…と考えると怖かったからだ。おまえに知らせなかったのも、もしも食べるのに困った時にこの手があったのか…と、知られない為だ。このような手がある事すら知って欲しくなかったからだ」
「で、ですが…はじめさんとその方が…く…口付けをされていた姿を見かけた人もいて……」
「そ、そのような事あるわけが……!! もしや、この雪で倒れそうになったのを助けたのが遠目ではそのように見えたのかもしれぬ」
「……私も…はじめさんが女の人と寄り添い歩くのを…見ました」
「……いつだ」
「―――昨日です。この近所で…てっきりはじめさんが帰ってくるのかと思っていたら、女の人がはじめさんに抱きついて、寄り添うように…家とは違う方向へ…行かれました…よね……」
 小さな声で、涙を堪えながら昨日千鶴が眼にした事を一に伝えた。
「違う! 誤解だ。それは…同僚の事を思うと振りほどく事が出来なかっただけで、寄り添っていたのではない。まっすぐに家に帰らなかったのは家に送り届けるというのもあったが、同じ方向に上司の家があり、仕事の事で話さなければならない事があったから、上司の家に向かっただけだ」
 言い訳をしているようにも見えたが、身体を離し、まっすぐに眼を見て話をする一に、それでも千鶴が眼にした光景があまりにも衝撃が強すぎて、何が真実で何が誤解なのか解らず、一の視線を反らし俯いた。
「千鶴……」
 両手で千鶴の頬に触れ、反らした顔を自分に向けさせ
「千鶴…信じてくれ。おまえ以外の女に興味はない。相手にどんな事情があろうとも、おまえを裏切る事など絶対にせん」
「でも、いつか…そのような事が起こるかも…しれないですよね……」
「起こるわけないだろう!」
「だって…あの優しい局長でさえ……」
 すっかり気持ちが悪い方へとしか向かわなくなっており、どれだけ一が言葉を紡いでも千鶴の心に届く事なく、自分に自信が持てなかった千鶴はまたポタポタと大粒の涙を零した。
「千鶴っ!!」
 噛みつくように口付けをし、これ以上千鶴が言葉を発しないようにする為なのか一自身解らなかったが、乱暴にするつもりはなかったが、ただただ自分の千鶴への想いを否定され、息も出来ない位の口付けを与え続けた。
「んっ…んん……」
 はじめは逃れようと抵抗していたが、一の力に千鶴が勝るわけもなく、唇を離すと力の抜けた身体に紅い花を沢山咲かせ「どう言えば、何をすれば俺にはおまえしかいないと伝わるのか」と、独り言のように呟く一の顔を見上げると、今まで見た事のない切ない表情をした夫の頬に手をやった。
「はじめさん……」
「千鶴、愛している」
 涙の線が残る頬に唇を寄せ「乱暴な真似をしてすまない」と、乱れた着物を整えてやり、抱き起こして、そのまま腕の中に閉じ込める。
 背中をさすりながら「俺はおまえさえ傍にいてくれたら、他に何もいらぬ。貧しい土地で苦労をかけるが、ただ千鶴が俺の隣で笑っていてくれるだけで、それだけでいい。信じて欲しい」千鶴の肩に顔を埋めて、少し籠った声で、呟いた。一の背中に手をまわして「はい」と答えると
「もう二度と俺のおまえへの想いを疑うな」
 また涙を流す千鶴の眼に唇をあてて、涙を吸い、頬に唇を寄せ、触れるだけの口付けを落とす。
「はい」
「もう一人で泣いたりなどするな」
「……はい」
「おまえが好きだ」
 今日何度告げただろう言葉をもう一度伝えると「私もはじめさんが好きです」と、恥ずかしいのか眼を反らして言う千鶴の顔を覗きこみ、視線を絡ませてもう一度唇を重ねた。