血の絆
刻印 1

(斎藤×千鶴)

 親しくなった。
 そう思っていたのは斎藤だけなのか。あの日以来、千鶴の笑顔が曇っているように斎藤には見えた。声をかけても笑顔を見せてくれるがどこか余所余所しい。同じ授業の時も隣の席ではなく、離れた場所に座る。しかも、ギリギリの時間に教室に入ってきて斎藤と眼を合わせずに隅に座る。授業が終わるとすぐに教室を出て斎藤の視界から消えていく。
(何故……)
 待ち合わせをしたあの日、何もおかしな出来事はなかった筈だ。会話を思い出しても、ひっかかる部分はどこにもなく
(女子はデザートが好きだと聞いて誘ったが、もしやダイエットをしていたのに、遠慮して断れなかったのではないだろうか)
 しかも、何が好きなのか解らずに沢山用意してしまった。だから、またデザートを勧められてしまうかもしれないと、斎藤を避けているのではないかという考えに至った。
 誤解を解かなければなるまい。
 決して自分は千鶴とデザートを食べたいから誘ったわけではないのだと。恋情という言葉で片付けたくはないし、「絆」だという、運命に縛られたそれも否定は出来なかったが、千鶴に対して心からの自分の想いがあると、断言できた。今はまだ早い。想いを知らせるまでにはもう少し時間をかけた方が良い。ただの恋愛ではない。いや、ただの恋愛でも元々急く性格ではない斎藤だが、決して普通のそれではないから余計に慎重に行きたいのである。
 とにかく今は生まれてしまった溝を埋めていかなければならないが、避けられているのにどう接すれば良いのか。元々、男ばかりの生活の中、女の扱い等皆目知らない斎藤が簡単に案は浮かばず、どうすればまず千鶴と向かい合えるか、視線を合わせられるかが問題だった。
(待ち伏せをするか…いや、しかし、それではまるで――)
 ストーカーのようだ。
 折角交換したメールアドレスや携帯番号があるのに、まず向き合って話さなければと、まだ一度も使った事がなかった。メールだと簡単に無視出来るというのもあり、それが怖かったのだが、メールだと心が伝わらないような気がしていたからである。
 告白をするわけではない。ただ、待ち合わせをしたあの時のように自然に話が出来、千鶴の笑顔が見たいだけなのだ。キッカケがなければ話しかけられない自分に歯がゆさを感じていた。

 結局、待ち伏せするしか顔を合わせる機会がないと、同じ講義がある日の朝、斎藤は教室の前ではなく学校の門の前に立っていた。
(今日の講義、一緒に取らぬか? い、いや…同じ授業に出るのだから、既に一緒に取っている事になるか)
(隣の席に座りたいのだが…は唐突過ぎるか。何故かと問われても答えられる自信もないが……)
 ならば、何と言えば自然に千鶴の隣にいられるのだろうか。芽生えた気持ちを告げるしかない。それこそ唐突ではないか。それでも心を躍らせながら待っていると、千鶴の姿が視界に入り、視線が合った刹那、千鶴がほんの一瞬だけ笑顔になりかけて、絡んだ視線は何もなかったように逸れた。
 拒否反応。
 間違いなく、斎藤は千鶴から避けられていた。視界にすら入れるのが嫌だというのかとさえ思えるが、ならば一瞬、ほんの一瞬だが笑顔になりかけたのは何故か。
 斎藤の方は視線を逸らせずに、どうすれば顔を合わせてくれるか、今声を掛けなければもう二度と機会はないかもしれないと、必死で思考を巡らせていると、一台の車が猛スピードで走り、千鶴の方へと向かった。
「危ない!」
 千鶴はよける暇もなく身体を硬直させると、離れた場所にいた筈の斎藤が千鶴の肩を抱き、車を左手一本で止めたように見えた。
「!!」
 言葉も交わさず斎藤はその場を離れ、千鶴は追いかけようとしたが、千鶴の友達が走り寄ってきて「大丈夫?」と、囲んだ。
「すまない。運転を誤って……」
 車を運転していた男がこめかみから血を流して謝罪したが、千鶴の耳には届かなかった。

 千鶴に怪我はなかったが、念の為に病院に行くと、事故の知らせを聞いた薫がすぐに顔を見せた。
「免許停止だぞ」
 運転していた男に威嚇すると
「怪我は?」
「大丈夫だよ」
「死にかけたんだぞ」
「でも、死んでないよ」
 もう一度振り返り「おまえ、後でゆっくり話がある」と、脅すように話しかけ「本当にごめん」すまなそうに謝る男を遮る為にカーテンを閉めた。
「おや、南雲君の…妹さん?」
 病室に入ってきたのは白衣を着た優しそうな医師だった。
「山南先生」
 千鶴を見ていた看護師と交代し、何か障害が起きていないかと検査を始めたが、何も問題はなかった。斎藤が助けてくれなかったらと考えると震え上がりそうになった。
「助けてくれた人がいて……」
 でも、それは普通ではあり得ない出来事だった。遠くにいた斎藤がいつの間にか千鶴の隣にしゃがみ、車を腕一本で止めたのだ。
 どう言えばいいのか解らず、言葉を濁した。きっと誰も信じてはくれないだろう。もし自分が言われても見ていなければ信じられなかったに違いないから。
 事故のせいで記憶が混乱している。誰もがそう言うだろうから。
 治療を終え、薫は運転していた男に用があると、千鶴は病室を出た。
「助けたのは失敗だったと?」
聞き覚えのある声を耳にし、こっそりと覗くと先程の山南と、沖田と、斎藤が話をしていた。
「僕達皆に関わる問題になるかもしれないじゃない」
「オフィスで話しませんか」
 千鶴の気配に気付き、三人同時に千鶴の方へと視線をやる。
「少し…いいでしょうか」
 やはりどうしても斎藤が瞬間移動したようにしか感じなかったし、助けてくれた御礼を言っていなかったと、声を掛けると、山南が沖田の腕を引っ張り、おそらく山南のオフィスへと向かい、斎藤は千鶴のもとへと歩み寄った。
「大丈夫、なのか?」
「どうして…どうして一瞬で……」
 一瞬で千鶴の隣に来れたのか。
 斎藤の言葉に返事をせず、御礼を言うのも忘れ疑問を投げかけた。
「俺は元々雪村の傍にいた」
「いいえ! 校門の傍に立っていました」
「違う」
「そんな! 斎藤さんは…校門に……」
「どうやら…頭を打って混乱しているようだ」
「ですが…私は見ました」
「何を見たというのだ」
「斎藤さん…車を…止めましたよね?」
 しかも、素手で、片手で。
「そのような事は誰にも言わぬ事だ。信じてはくれまい」
 人に言ったとしても信じてくれないのは承知の事だが、それでも千鶴は真実を知りたいと本人である斎藤にだけ話したのだ。
「でも…真実を知りたいです」
「感謝だけで良い」
「も、勿論感謝してます。助けて下さって有難うございます」
「それでいい。後は忘れるんだ」
「嫌です」
「期待をしても無駄だ。俺からは何も話さない。あんたは…頭を打って混乱しているだけだ」
 向き合って話をする機会が出来たというのに、今度は斎藤が千鶴を避けるように踵を返し病院を出た。

 助けた事に悔いはない。
 だが、千鶴には何も知られたくない。危険が及ぶかもしれない。いや、斎藤が危険を呼んでしまうかもしれないからだ。
 気付いた絆を無くせないし、千鶴を手放せなくなるのも斎藤には「見えて」いた。
(親しくなるべきではないのかもしれぬ)
 勝手な絆で、千鶴を縛るだけではないのか。千鶴と出会って初めて自分が求めていたと知り、まるで子供のように千鶴に近付きたいと願ったが、それは間違いだったのかもしれない。
 斎藤は漸く出会えた唯一無二の存在である千鶴から離れなければいけないと、心が張り裂けそうになっていた。