血の絆
約束 2

(斎藤×千鶴)

 夕飯を済ませ、食器を洗うのは薫が担当している。家事は殆ど千鶴任せであったが、これだけは薫が自らやるからと譲らなかった事だ。小学、中学の頃は遠慮して食べられなかったというのもあったし、南雲家の息子達とは明らかに違う待遇だった為、高校からはアルバイトを始め、外食を取るようになった。外食といってもファーストフードだったが、薫にとって御馳走だった。それに気付いた千鶴は昼は弁当を作ってきてからはそれが御馳走になり、偏った食事ではなくなって、高校を卒業しこうして昔のように一緒に暮らしているこの生活は薫にとって夢のような毎日でもあった。家族がバラバラになってからずっと夢見ていた生活だったからだ。
 家事は得意ではない。しかし、食器を洗う位ならば出来ると、これはささやかではあるが、千鶴への感謝の気持ちの現れなのだ。自分の事を忘れずにいてくれた。引き取られてから暫くは「千鶴、千鶴」と、涙を見せる事はしなかったが、会いたくて仕方が無かった。しかし、南雲家の人間は表だって千鶴との交流を避けさせようとはしなかったが「千鶴はもうおまえの事等忘れている」と、何度も何度も言い聞かせていた。悪意を持って言われているのに気付くまでに時間がかかり、彼らの言葉を信じてしまいそうになりながらも、千鶴が自分と同じ思いをしてなければいい。千鶴には笑っていて欲しいと、願い続け、暫くしてから千鶴から手紙が届くようになった。
 送られた手紙をそのまま手渡される事は一度もなかった。予想していた事だった。もしもおかしな内容が書かれてあればそれは捨てられていたに違いない。しかし、千鶴からの手紙は何の変哲も無い、差し障りのない内容だったのだ。もしかすると何枚か抜かれてしまっているのでは…と思わなくもなかったが、手紙全てきちんと内容が繋がっていたし、まるで狙ったかのように文章は頁をまたがって、もし抜かれていればあきらかにおかしな文面になるように書かれてあったのだ。小学生だった千鶴がわざとそうしたのだろうか。いや、考えて出来るような性格ではない。人を疑う等出来ない純粋無垢な性格なのは薫が一番知っていた。小学生だから頁や、行等全く考えずに書いていたのしかもしれないが、中学生になってからも千鶴の手紙の書き方が変わる事はなかった。内容も、相変わらず差し障りがなく、上から消されるような事もなく、途中を抜かれる事もなかった。ずっと変わらなかったのは手紙の書き方や内容だけでなく、必ず折り紙が入っていた事。必ず鶴が折られていた。「鶴を折りました。私だと思って飾ってね」と、手紙には書かれてあった。はじめはその織り鶴を開いて確認した形跡も見られた。破れていたり、折り目がおかしかったりしたからだ。本当に単純に鶴を折って入れているのだと、折り紙が当たり前になった頃に千鶴はそこにメッセージを書くようにした。薫は必ず折り鶴を開いて、もう一度折り直して飾った。一緒にいた頃、喧嘩した時「ごめんね」と素直に謝る千鶴に対し、薫は素直に言葉に出来なくて折り紙に「ごめんね」と書いて、枕元に置いて、素直な気持ちを伝えていたから。
「もしかして」
 その気持ちを捨てられず、手紙をチェックしていた者も「ただの折り鶴」だと認識するようになっても、いつか何かを書いてくれるのではないかと諦められなくて、薫もまた何も書いていない折り紙に奴を折って手紙に同封していた。いつでもここに返事を書けるように。もしも千鶴がメッセージを書いて、それに返事をしたくなった時に怪しまれないよう、同じくチェックをされていた薫の手紙に折り紙が入っているのは「ただのなぐさめ」のような物だと千鶴以外の人間に勘違いさせたままにする為に。
 折り鶴にメッセージが書かれるようになったのは手紙のやりとりが始まってから五年近く経つようになってからで、初めてのメッセージは「薫ちゃん、会おうよ」だった。
 真ん中に堂々と書かれているのではなく、隅に小さな文字で。日付と時間を記憶し、鉛筆で薄く書かれた文字を消して、いつもと同じように折り直して机に飾った。

「薫ちゃん!」
 再会は別れ別れになってから数年が経ち、漸く叶った。
 嬉しそうに駆け寄り、力一杯薫に抱きついた。
「千鶴、落ち着け」
 言いながらも、しっかりと千鶴を抱き留め、久しぶりの再会に涙しそうになるのを堪え、薫は笑顔を見せた。再会の時間はほんの一時間だった。薫は勿論の事、千鶴も義父、綱道に秘密で家を抜け出していたから。
 聞きたい事は山のようにあったが、初めての密会はただ確認するように、元気でいるのか、自分は大丈夫だとだけ言い合うだけで終わった。

 毎回折り紙にメッセージを書くのは怪しまれてしまうと、大切な伝言がある場合のみそこに記すようになった。とても子供とは思えない行動だったが、それは薫がこの数年で身に付けたものだった。南雲家で信頼出来る者は誰ひとりいない。自分を守るのも、千鶴を守るのも薫だけだと幼いながらに自負していた。
 高校は一緒の学校に進もう。
 全寮制の学校に行きたいと綱道に申し出てみたが、薫は「それは多分無理だ」と、言っていた通り猛反対された。
「この家を出る事は許さない」
 どれだけ理由を聞いても、綱道はその一点張りだった。執拗に聞いたとしても千鶴に不利な制限を置かれるだけで何の特にもならないと悟った千鶴は猛勉強をし、一番の進学校を選び、薫も猛勉強をして同じ高校を目指した。私立と公立、どちらも申し分ない学校の受験し、公立を選び、進学した。

「綱道さんには俺がここに進学したのを言わないで欲しいんだ」
「どうして?」
「俺は南雲家の人間におまえと一緒の学校にいると知らせてない」
 それは気付いていた。南雲家の人間が薫と千鶴を会わせなく無いと、はっきり聞いたわけではないが、綱道の言葉、態度から千鶴が幼い頃から感じ取っていた。そして、綱道もまたそれを望んでいるようにも見えた。だが、千鶴が薫を恋しがる度に「君達は本当に仲の良い兄妹だったからね」と、淋しそうな笑みを浮かべて宥めた。本当は綱道は薫と千鶴を一緒にいさせてやりたいと思っているが、南雲家の眼もあり、薫に会いたいという願いを受け入れられないのだと、千鶴は全てを綱道に話してはいないが、偶然薫と同じ高校に入学した事は言ってもいいのではないかと感じていたのだ。
「それは解ってるよ。でも、父様には言ってもいいんじゃないかな。きっと黙っててくれると思うし……」
「いや、用心しておいた方がいい。何が起こるか解らないからね」
 薫は一体何を恐れているのか。どうしてここまで用心するのか、何度か聞いた事があったが、薫は絶対に理由を口にしなかった。問い詰めた所で薫が簡単に話すとは思えず、千鶴を守ろうとしているのも痛い程解っていたので、何かが起こっている。秘密にされている事があると悟りつつ
「解った。じゃぁ、何も言わないでおくね」
 そう言うしかなかった。自分を育ててくれている綱道にも感謝していたし、信頼をしているが、それ以上に信用しているのは薫だった。家族として暮らした時よりも長い時間を別々に過ごしたが、薫にとって家族は千鶴だけしかいないのだと知っていたし、千鶴にとっても薫は大切な家族だから。

「いつか、昔みたいに兄妹で暮らそうね。頑張って勉強するから、待ってるんだよ」

 初めて、ふたりで会った時、薫が一番はじめに言った言葉だ。薫はそれだけの為に耐え抜くと言って笑った。耐え抜く、と。そして千鶴は綱道に優しくして貰っているか。本当の所はどうなのだと詰め寄る。その眼差しはとても小学生のものとは思えず、いきなり大人びてしまった兄に戸惑いを感じたが、薫を守れるのは自分しかいないのだとその時強く感じた。

「うん、私も頑張って勉強するね。そしたら、ずっと一緒にいれるようになるよね。もう家族バラバラじゃなくなるよね。約束だよ」

 今でもはっきりと覚えている。ふたりだけの約束。風呂から上がると、ソファで眠る千鶴が眼に入った。
「ったく、風邪引くだろ」
 毛布をかけて気持ちよさそうに眠る千鶴を見ると笑みがこぼれた。漸く手に入れた家族の時間。いつまで続くか解らない。不安もあったが、いつまでも南雲家に捕まっていたくなかった。そして、千鶴も捕まえさせたくなかった。ふたりの両親が守ってきたものが何なのか、まだはっきりとは知らなかったが、南雲家とは微妙な関係だったのではないかと思えて仕方が無かった。千鶴には何も言われていないが、きっと同じ事を感じているに違いない。
 いつか、話さなければならない事がある。そのいつかが来なければいい。ただ、千鶴には昔のように無邪気に笑っていて欲しい。淋しい思いをさせたくない。義父として千鶴を守り、育てた綱道の元を離れさせて、寧ろ今淋しい思いをさせているのではないか。

「斎藤…さん……」
「斎藤…?」
 幸せそうな笑みの後、泣きそうな表情を浮かべる。
「男、か……」
 夕食の時に感じた千鶴の淋しそうな影は斎藤という男にあるのだと、今排除すべきは南雲でもなく、その影に潜むものでもなく、千鶴に近付く男だと。折角の家族水入らずの時間を減らそうとしている男から千鶴を奪還すぼきなのだと、敵意をあらわにした。
「同じ大学だろうね。調べなきゃいけないな。俺と千鶴の時間を奪おうとしているのかな。ううん、それ以前に千鶴にこんな顔をさせるなんて許せないね」
 きっと千鶴はどこにいても、どんな状況でも笑顔でいるだろう。でも、哀しい、辛い気持ちでいても笑顔を浮かべるだろう千鶴は見たくない。それに、まだ千鶴を他の男に奪われたくなかった。あの日誓った約束をまだ果たせていなかったから。