息の距離

(斎藤×千鶴)

 千鶴は今葛藤中だった。
 昨日祝言をあげ、無事初夜も迎え、今日は一日夫である一は非番の日で、ふたりで幸せを噛みしめながら穏やかな一日を過ごした。午前中は布団の中で甘ったるい…いや、千鶴にとってはとても恥ずかしい時間を過ごしたのだが、それでも幸せに変わりはなかった。一緒に昼食を作り、他愛のない事を話しながら食事を取り、それからは千鶴が普段している家事を一は「手伝おう」と、屯所にいた頃のように声をかけた。
「いえ、これは妻の仕事ですから」
 そう断っても「おまえと共にいたいのだ」等と言われては断る理由もなく、仲良く家事をこなしていき、夕餉の支度も一緒にし、しばし寛ぎ、今は一が風呂に入り、千鶴は寝室で布団を敷いているのだが……
(少し離した方がいいのかな。くっつけるのも…恥ずかしいし…でも、夫婦って…どうなのかな。うん、やっぱり前と同じ位離しておこう)
「そういや、ここに来たばかりの時も…こういう事あったな」
「こういう事、とは?」
 振り向くといつの間にか風呂から上がった一が立っていた。
「あ、斎…はじめさん」
「どうした?」
「い、いえ。何でもないんですけど」
 少し離した布団の間に座っている千鶴の隣にしゃがみこみ、優しく頬を撫でて、千鶴が話をするのを待つように微笑んだ。
 布団の距離で悩んでいるというか、迷っているというか、ただの恥ずかしさからというのが一番だが、それを一に言うのはもっと恥ずかしくて「私もお風呂、いただいてきますね」と、逃げるように寝室を出た。

 袂を分ち、会津に向かう時から野宿の時は一の腕の中で眠り、宿を取った時は離れているのはとても危険なのだと「嫁入り前なのは解っているが、堪えて欲しい」と真摯な態度で言われ、同じ部屋を取り、同じ部屋で寝泊りをしていた。元より危ない場所にいる事は千鶴も解っていたので、恥ずかしい等と言っている場合ではないし、千鶴自身ひとりでいるのはとても怖く、心配させたくないとそれを一に言う事は一度もなかったが、おそらく一は気付いていただろう。
 宿を取った時の布団の位置は少し離れていたが、手を伸ばせば届く距離で、手を繋いで眠る事もあった。それで同じ部屋で寝泊りするのに慣れてはいた。しかし、いざ一緒に暮らすという事になり、夫婦でもないふたりが同じ部屋で眠るというのははしたないのではないかと考え、別々の部屋に布団を敷こうとする千鶴に
「何故、別の部屋に布団を敷いているのだ?」
 と、風呂から上がった一が後ろから布団を取り上げ、一の寝室に…と、考えていた部屋で、既に一の布団が敷かれたその隣に当たり前のように千鶴の布団を敷いた。
「あ、あのっ」
「何だ」
「私は居間でも構わないので」
 そう言うと、とても不機嫌そうな顔で
「共に寝るのは嫌か?」
「えっ…嫌とかではないです」
「では、問題なかろう」
 その日は宿に泊まっていた時よりも少し近い位置に布団を敷き、手を繋いで眠ったのだ。

「恥ずかしかったけど…嬉しかった。本当に斎藤さんと一緒に暮らせるんだって…実感出来たから」
 湯船に浸かって、当時の事を思い出していた。一緒に暮らせるだけで幸せだったのに、それだけで充分だったのに、夫婦にまでなった。この上ない位に幸せで、こんなに幸せでいいのだろうか、と不安になる程でもある。
 しかし…夫婦になったからすぐに布団の距離を縮めるのは流石に恥ずかしい。それでなくとも、今日は昼になるまでずっと同じ布団の中で過ごし、何とも恥ずかしい…一にこんなに甘い部分があったとは…いや、少し甘い所があるのは気付いていた。気付いたのはここ斗南に来てからなのだが。きっとそれは千鶴にだけ見せる一の根っこなのだろうと思うと、あの甘ったるい朝を宝物のように感じ始めるのだ。

 色々考え過ぎて、少しのぼせて風呂から上がり、寝室に行くと、ふた組敷いていた筈の布団がひとつになっていた。よく見ると、敷布団は二重に重ねられ、掛け布団もまた二重に重ねられていたのである。
「は、はじめさん…これは…?」
「布団に入っていても寒いのでな。こうして重ねれば少しは温かいだろう」
「そっ…それはそうですけど……」
 私はどこに寝れば? そう言いたげな視線を一にやると
「共に眠れば良い」
 当然のように答えた。
「えぇっ?!」
「何をそのように驚いている」
「で、ですが……」
「俺達は夫婦だ。恥ずかしがる事もなかろう」
「恥ずかしいに決まってます!」
「しかし、夕べおまえは……」
 その続きは言葉にして欲しくないという強い意志を込めて一の口を抑え「それ以上は言わないで下さい」と、頬を染めて言うと、今日ずっと目の当たりにしていた蕩けるような視線を千鶴にやり、優しく千鶴の手をのけて、唇を塞ぎ、そのまま布団に押し倒した。
「ちょっ…さ、斎藤さん!」
 いきなり視界が変わり、再び一を天井越しに見る事になり、慌てて両手で押しのけようとするが、構わず唇を重ね「名で…呼んで欲しい。千鶴」何度聞いただろうその言葉を耳元で囁かれ「はじ…はじめさん…」と頼りなさげに呟くと「千鶴…」切なげに妻の名を呼び、夕べのように組み敷こうとする夫を「ま、待って下さい。まだ髪が濡れたままで…」と、何とかして布団から抜け出そうと試みるのだが
「俺は構わぬ」
 等と言い出す始末。
「私は構います! 後生です。せめて髪だけは……」
 髪を乾かさなくても、梳かさなくても、結えば済む事でもあった。だが、性急過ぎる展開に頭と心が付いてこないのか、拒んでいるつもりは露程もないのだが、一は拒まれているような気持ちになり、艶やかだった眼が途端に哀しい色に変わった。
「……そんなに嫌なのか。確かに夕べは無理をさせてしまったが、それは…おまえを愛しく想った故……」
 赦しを請うように組み敷いた身体を解き、目の前に座らせた。
「あ! ち、違うんです。嫌とか…そんなのあるわけないです。その…恥ずかしいと言いますか…私はずっと父様とふたり暮らしで、夫婦というものを見て育ったわけではないから、どうすればいいのか解らないだけなんです。さいと…うはじめさんが嫌だとか、そんな事は絶対にありません!」
 力説するように拳を握りしめて言うのだが
「何故、夫を氏と名を合わせて呼ぶ」
 違うと言いながらも、一の望むように名前で呼ばないのにはそれなりの意味があるのではないかと、真剣な顔で見ると、一が感じている事に気付いたのか。
「ちっ…違います。今のは…つい癖で、また『斎藤さん』と呼んでしまいそうになったので、そのまま続けて名前で呼んでしまっただけで、他意はありません」
「そ、そうか」
 安心したように、少し口の端を上げると
「夫婦というものを見て育っていないと言ったな」
「はい。近所の夫婦は見かけましたけど、家で一緒に生活するのと、よそ様の家族を外で見かけるのとでは違いますから」
「よそと同じようにする意味もなかろう。俺達は俺達の思う夫婦になれば良い。俺が千鶴を愛しいと想っているように、おまえもそう感じてくれているのならば、その心のままにいて欲しい」
「で、ですが…まだ慣れないと言いますか、恥ずかしい…です」
「ならば、慣れれば良い」
 額に口付けを落とすと、そのまま瞼、頬、唇に口付けて、再び千鶴を組み敷き、愛しい妻の身と心を拘束するのだった。
 急速に縮まった吐息の距離に戸惑いを感じながらも、躊躇いながらも、愛してやまない夫の腕の中で甘い吐息を吐いた。


 いい夫婦の日に合わせて書いた話です。
 「いい夫婦」というよりも、単なるいちゃいちゃ新婚バカップル…みたいな感じになってしまいましたが(笑)
 斗南での彼らはただただ静かに、そしていちゃいちゃし続けて欲しいのです。
 「黎明録」でほのぼのといいますか、とても仲睦まじいふたりだったので、それがとても嬉しかったです。きっと優しい時間がふたりに流れているのだと、そう願ってやみません。